上淀廃寺跡とは? わかりやすく解説

上淀廃寺跡

名称: 上淀廃寺跡
ふりがな かみよどはいじあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 鳥取県
市区町村 米子市淀江町
管理団体
指定年月日 1996.03.29(平成8.03.29)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日 平成17.07.14
解説文: 上淀廃寺跡は鳥取県西部米子平野東端位置する七世紀後半造営され寺院の跡であり、大山北西麓の日本海にのぞむ丘陵南側斜面立地するこの周辺には古墳時代中期から後期著名な古墳群である向山古墳群本州では唯一の石馬を伴うと伝えられる石馬谷古墳でなどがある。現在、上淀廃寺寺域水田となっているが、この土地は、古くから古瓦が出土することから、古代寺院存在推定されていた。鳥取県教育委員会淀江町教育委員会平成二年から六年までの間、寺院実態解明目的とした発掘調査実施し平成三年調査では彩色壁画片が出土し大きな話題をよんだ。
 遺構水田造成などによって一部平されていたが、伽藍中枢部とその周辺についての状況明らかにすることができた。伽藍配置は、金堂東側に三基の塔を南北配置するという、他に類例のない特異なものである。金堂と塔は斜面整地して建てられその周辺関連施設配置されている。
 金堂基壇は下成基の上上成基壇を置く二重基壇構造とっている。下成基壇の規模東西一四・六メートル南北一二・四メートルで、高さ三〇センチメートルほどの側面人頭大の自然石外装し、上成基壇は下成基壇の内側三〇センチメートル位置立ち上がり、瓦積み外装施している。金堂建物規模については、基壇上面が削平されていて、礎石位置確認することができないため明らかではない。
 南北に並ぶ三基の塔のうち北の塔は、据え付けられた状態で心礎検出されたが、基壇確認できず、完成しなかった可能性が高い。ただ三基の塔の心礎等間隔配置されており、当初南北一直線に三基の塔を並立させる計画であった考えられる中央と南の塔の基壇残っており、いずれも金堂と同じ二重基壇で、東西九・九メートル南北一〇・二メートルである。基壇上には礎石抜き取り穴や礎石根石残しており、塔は初層が三間×三間建物であったことがわかる。
 堂塔を囲む施設西側では削平されて不明であるが、東側二本の溝が確認されていることから、ここに築地推定することができる。南側には中門跡推定される石列と、これに取り付き東西方向にのびる回廊築地の跡と推定される石列がある。これらの遺構から伽監中枢部は約五五メートル四方規模推定される金堂中央および南の塔付近に瓦類や壁体、塑像土器などの混じる焼土層があり、十世紀代火災により消失したことが知られる
 伽監中枢部の北側一段高くなっており、鐘あるいは経蔵かと推定される梁間三間桁行三間掘立柱建物と、僧房ないし食堂推定される庇をもつ大型掘立柱建物がある。その北側に、寺院区画する考えられる東西方向の溝があり、これによって、寺域規模南北約九〇メートルであった推定される。この東西溝の北側はさらに高くなっており、寺院より古い飛鳥時代大型掘立柱建物の跡が数棟存在する。これらの建物は、眼下に望む向山古墳群とほぼ同時期に建てられたものであり、その被葬者氏族がこの場所に居館などの施設造営し、後にこの寺院建立したとの推測もできる。
 出土遺物には七世紀後半から平安時代に及ぶ瓦類須恵器土師器などの土器類のほかに、多く壁画壁体、塑像出土している。瓦類には上淀廃寺式と称される単弁十二蓮華文軒丸瓦はじめとする四種軒丸瓦、重弧文など五種軒平瓦鴟尾などがある。丸瓦には「癸未年」と紀年名を篦書きしたものがあり注目される。「癸未年」は瓦の年代観から天武十二年(六八三)と考えられ寺院創建年代示唆する壁面細片化し表面火熱受けているが、神将菩薩などが鮮明に描かれており、自然景を背景にした如来脇侍菩薩を、多く菩薩神将取り囲む構図をもっと推測される塑像片には像の形状明らかなものが約四〇点あり、丈六如来像、菩薩像神将像の一部確認される。これらは金堂三尊仏とその周囲四天王考えられる
 この寺は郡司層などの在地の有力氏族によって建立されたと考えられるが、南北に三基の塔を並立させるという類例のない特異な伽監配置計画されたことに加え、現在明らかになっているかぎりでは法隆寺以外に例のない彩色壁画や、出土例稀な塑像片が出土したという点において、大きな意義をもっている。壁画荘厳された地方白鳳寺院具体的なあり方を知る上で、この遺跡歴史的意義きわめて大きい。よって史跡指定し、その保存図ろうとするものである

上淀廃寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 00:45 UTC 版)

上淀廃寺跡 伽藍全景
上淀廃寺跡
位置図。

上淀廃寺跡(かみよどはいじあと)は、鳥取県米子市淀江町福岡字櫻田・法行・垣サゴに所在する古代寺院遺跡廃寺。淀江平野東側の丘陵裾に位置する。国の史跡に指定されている。

概要

壁画「神将」
上淀白鳳の丘展示館展示。

1991年より淀江町教育委員会が発掘調査を実施、法隆寺金堂壁画と並ぶ日本最古級の仏教壁画が初めて出土し、社会的に注目された。数少ない上代寺院の堂内荘厳を復元し得る遺跡と評価され、1996年3月29日に、国の史跡に指定された。現在の指定面積は25,560平方メートル。

紀年銘瓦[1]等の遺物から飛鳥時代後期(7世紀後葉)の建立、8世紀中頃の改修を経て、平安時代中期(11世紀初頭)に焼失したものと考えられる。これまでの調査で中心伽藍(塔跡・中門跡・回廊跡など)、寺域、その他倉庫等の雑舎が確認されているが、講堂の所在が不明である。

寺域は天平尺で東西約2町(212メートル)、南北1町(106メートル)の規格とみられ、ほぼ中央に半町(53メートル)四方の中心伽藍が位置する。伽藍配置は発掘当初は法起寺式伽藍配置とみられたが、実際は南北に3基のを並べる、類例のないものであることがわかった。南を正面として、東西棟の金堂跡の東側に、南北に3基の跡がある。ただし、北塔については塔の心柱を支える心礎は検出されたが基壇は未確認であり、計画のみで建立に至らなかった可能性もある。計画のみとしても3塔を配置する伽藍配置の例は他になく、2塔でもこれらを南北に配置する古代寺院は他にない。基壇の規模は、金堂が東西14.2メートル、南北12.5メートル、中塔・南塔はいずれも9.5メートル四方を測る。金堂及び中・南塔の基壇は瓦積みの周囲に石列を設置する二重基壇で、百済の寺院に多く見られる様式である。

遺物は、壁土(壁画含む)約1,300点の他に、塑像約3,500点、類(鴟尾含む)、土器鉄器、金銅製品が出土した。塑像は金堂跡、中・南塔跡とも周辺から、壁画は金堂周辺のみからの出土である。壁画及び塑像は、いずれも創建時と改修時のものがあり、創建時は半丈六如来像を本尊として、背後に浄土変相図の類の壁画が描かれていたと考えられる。改修時には金堂に丈六三尊像が本尊として安置された。壁画の一部には、仏像の光背と蓮華座のみを表して仏像本体が描かれないものがあり、その本来の意図は明らかでない。屋根瓦のうち単弁十二弁蓮華文の軒丸瓦は「上淀廃寺式瓦」と称され、その祖型は朝鮮半島の新羅に求められるという。

出土品は近接する上淀白鳳の丘展示館に保管・展示されており、遺跡は2004年から米子市によって環境整備(公園化)が進められている。同じ淀江町福岡地内に史跡妻木晩田遺跡向山古墳群が所在する。

参考画像

文化財

国の史跡

  • 上淀廃寺跡 - 1996年(平成8年)3月29日指定、2005年(平成17年)7月14日に史跡範囲の追加指定[2]

鳥取県指定文化財

  • 保護文化財(有形文化財)
    • 上淀廃寺跡出土壁画・塑像 附 瓦・土器類(考古資料) - 2009年(平成21年)9月29日指定[3]

脚注

  1. ^ 「癸未年」の箆書きがある。この年は天武天皇12年(683年)と考えられている。
  2. ^ 上淀廃寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 上淀廃寺跡出土壁画・塑像 附瓦・土器類(鳥取県ホームページ「とっとり文化財ナビ」)。

参考資料

  • 『上淀廃寺(淀江町埋蔵文化財調査報告書第35集)』1995 淀江町教育委員会
  • 『上淀廃寺跡III(淀江町埋蔵文化財調査報告書第51集)』2001 淀江町教育委員会
  • 『上淀廃寺跡IV(淀江町埋蔵文化財調査報告書第57集)』2004 淀江町教育委員会
  • 『上淀廃寺跡V(淀江町埋蔵文化財調査報告書第60集)』2004 淀江町教育委員会

外部リンク

座標: 北緯35度27分15.0秒 東経133度26分45.1秒 / 北緯35.454167度 東経133.445861度 / 35.454167; 133.445861




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上淀廃寺跡」の関連用語

上淀廃寺跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上淀廃寺跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上淀廃寺跡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS