ビアク島とは? わかりやすく解説

ビアク島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:20 UTC 版)

ウィリアム・フェクテラー」の記事における「ビアク島」の解説

ビアク島の戦い」も参照 1944年1月18日、フェクテラーは少将昇進トーマス・C・キンケイド中将アナポリス1908年組)率い第7艦隊スタッフとして加えられ第77任務部隊(第8上陸支援部隊司令官となった第7艦隊ダグラス・マッカーサー陸軍大将南西太平洋軍陸上部隊とともにニューギニア島北岸沿いを西進しており、4月下旬にはホーランジア制圧して(ホーランジアの戦いワクデ島手中に収め次なる目標はビアク島となった。守る日本軍方針がぶれていた間隙突き、フェクテラー率い第77任務部隊輸送された第41歩兵師団英語版)(ホレース・ヒュラー(英語版陸軍少将)は5月27日早朝、ビアク島南岸ボスネック海岸上陸開始する第77任務部隊は7.5ノット低速力であった日本軍に全く見つからず上陸は全くの奇襲となった。フェクテラーはオーストラリア海軍のヴィクター・クラッチレー(英語版少将率いる第77.2任務群およびラッセル・S・バーキー英語版少将率いる第77.3任務とともに火力支援任じた5月27日午後、フェクテラーの旗艦である駆逐艦サンプソン英語版)」 (USS Sampson, DD-394) は依然としてボスネック海岸火力支援行っていたが、その時、超低空で4機の日本機が部隊突入してきた。4機のうち2機は撃墜され、残る2機のうち1機は被弾して退散最後の1機はフェクテラーが乗るサンプソンめがけて突入してきたが被弾影響わずかに外れ駆潜艇SC-699に命中して爆発し損傷与えた。フェクテラーは無事であった。この攻撃は、日本陸軍飛行第五戦隊長高田勝少佐率いる4機の「屠龍」によるもので、後刻特攻さきがけ」として「駆逐艦2隻撃沈、2隻大破」の戦果挙げた喧伝された。フェクテラーは第77任務部隊とともにモロタイレイテおよびリンガエン馳せ参じ1945年3月までその職にあった

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ビアク島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:42 UTC 版)

フェニックス (軽巡洋艦)」の記事における「ビアク島」の解説

引き続き、ビアク島とチェンデラワシ湾への攻勢始まったマッカーサー大将この方面に重爆撃機基地建設することを計画していた。日本軍もビアク島に飛行場建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった。5月25日フェニックスナッシュビルおよび軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共にフルボント湾を出撃27日から始まったビアク島上陸支援した。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊司令官千田貞敏少将)と、日本陸軍歩兵222連隊連隊長葛目直幸少将)が配備されていた。日本軍抵抗熾烈で、火力支援部隊沿岸部日本軍陣地砲撃した際に、2隻の駆逐艦反撃受けて損傷したフェニックスは5インチ砲を以って陣地破壊した詳細は「渾作戦」を参照 この方面の日本海軍水上部隊指揮していたのは、南西方面艦隊隷下南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官左近允尚正少将であった南西方面艦隊第四南遣艦隊、さらに連合艦隊意見具申により、大本営南方軍海上機動第二旅団海軍艦艇輸送することに決定した。これが渾作戦である。本作戦に第二方面軍司令官阿南惟幾陸軍大将大きな期待寄せていた。 日本軍増援部隊の派遣検討する中、ビアク島では激戦続いていた。日本陸海軍航空部隊は、ニューギニア島西パプア州ソロンバボ拠点に、ビアク島方面連合軍空襲敢行した。6月4日フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中日本軍攻撃隊(零戦19一式戦闘機 12彗星 6)に攻撃された。日本側はホノルル軽巡2隻、オマハ型軽巡2隻、駆逐艦8隻(実際乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃しホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、グラマン2撃墜零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還報じたフェニックスには2機が攻撃行い対空砲火打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片負傷させた。別の1発はフェニックス船体スクリュー損害与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビル至近弾で損傷した。翌6月5日夜にもビアク島近海一式陸上攻撃機小数機の航空攻撃受けたが、対空砲火打ち上げて追い払う陸攻隊は巡洋艦1隻轟沈駆逐艦1隻撃沈報告し全機帰投した。 フェニックス僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍艦艇多数投入した第一次渾作戦実施されていた。第一次渾作戦部隊6月2日夕刻ミンダナオ島ダバオ出発し、ビアク島にむかった。だが翌3日、B-24 2機に触接された上に「敵有力部ニューギニヤ北西部行動中」という理由中止された。扶桑第五戦隊ダバオ引返し輸送部隊ラジャ・アンパット諸島ワイゲオ島経由して6月4日夜、ソロンに入泊した日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが、実際フェニックスを含む巡洋艦部隊であった6月8日から6月9日夜にかけて、フェニックスはヴィクター・クラッチレー(英語版少将オーストラリア海軍率い第74任務部隊 (Task Force 74) の一艦として、ビアク島に逆上陸を試み日本軍動き警戒していた。そんな最中第二次渾作戦でビアク島に向けて進撃中の、日本軍駆逐艦5隻が任務部隊迫りつつあった。左近允尚正少将重巡青葉軽巡鬼怒ハルマヘラ島バチャン泊地退避させ、駆逐艦6隻のみで8日早朝ソロン出撃、ビアク島を目指していた。だが、昼間P-38B-25反跳爆撃駆逐艦白露小破駆逐艦春雨沈没し第27駆逐隊司令白浜七大佐が戦死した。それでもビアク島揚陸決意変えず進撃続けていたのである第74任務部隊重巡オーストラリア軽巡フェニックス軽巡ボイシ駆逐艦14隻)は夜戦日本軍輸送部隊駆逐艦5隻)を迎え撃った。しかしアメリカ艦隊発見した左近少将指揮下の輸送部隊は、魚雷発射しつつ高速退却する圧倒的優勢第74任務部隊レーダー砲撃おこないつつ追撃したが、逃げ切られた。西野時雨駆逐艦長)は、輸送部隊最後尾にいた時雨敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している。時雨後部砲塔反撃し、敵巡洋艦命中弾5斉射認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している。 時雨などを取り逃がしたフェニックス僚艦は、ゼーアドラー湾帰投した。日本海軍大和型戦艦投入決断し第三次渾作戦開始したハルマヘラ島バチャン泊地重量艦(大和、武蔵妙高羽黒青葉)を含む渾作戦部隊集結した。だがサイパン島情勢急変し6月13日をもって第三次渾作戦中止された。さらにマリアナ沖海戦連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊対す日本軍圧力消滅した一息ついたフェニックス達は整備おこなった後、7月2日にヌムフォア島(英語版)を艦砲射撃し、上陸支援した砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵死体飛行機残骸漂流していた。続く9月15日からのモロタイ島の戦いでは、フェニックスボイシナッシュビルシュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共にモロタイ島上陸部隊援護のためハルマヘラ島砲撃した

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