ハリマンの来日と予備協定の締結とは? わかりやすく解説

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ハリマンの来日と予備協定の締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:38 UTC 版)

桂・ハリマン協定」の記事における「ハリマンの来日と予備協定の締結」の解説

日露戦争勝利により、日本旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道南満洲鉄道)と、これに付随する炭坑利権ロシア帝国より獲得しそのこと1905年9月5日調印ポーツマス条約にも明文化された。しかし、伊藤博文井上馨らの元老第1次桂内閣首相桂太郎には、戦争のために資金使いつくした当時日本に、莫大な経費要する鉄道経営していく力があるかについては自信がもてなかった。そのため、講和条約反対東京暴動のきざしがみえるなか、日露戦争中の外債募集にも協力したアメリカ企業家エドワード・ヘンリー・ハリマン1905年8月来日した際、これをおおいに歓待した。 ハリマンは、日本銀行高橋是清副総裁大蔵次官阪谷芳郎意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版駐日アメリカ合衆国公使招きによって、自身の娘をともないクーン・ローブ商会ジェイコブ・シフとともに来日したハリマン一行ニューヨーク出発したのが8月10日サンフランシスコ経由して横浜港到着したのが8月31日であり、外相小村寿太郎ポーツマス講和会議全権として渡米中のことであったハリマン招いた日本側の事情としては、金融担当者のなかに、近い将来日本正貨危機陥ることは必至だとの観測があったことが挙げられるハリマン一行宿泊したのは、日比谷公園隣接する帝国ホテルであったハリマン一行は、大蔵省日本銀行横浜正金銀行などの職員出迎えられ銀行関係者設けた歓迎晩餐会出席したのち、9月1日東京入ってからは連日伏見宮博恭王首相曽根荒助蔵相井上馨渋沢栄一岩崎弥之助らのもてなしを受け、9月4日にはグリスカム公使主催大園遊会、5日には曽根蔵相による晩餐会盛大に開かれた5日は、ポーツマス条約調印にあたっており、晩餐会帰途ハリマン自身怪我はなかったものの投石を受け、翌9月6日予定されていた華族会館での歓迎会中止された。なお、これに先立ちハリマン財団と関係の深かった三井合名会社ハリマン一行歓迎会計画しており、その席で日本武術披露する企画考えていた。この企画について益田英作を通じて協力賛助依頼されていた内田良平は「思ふ所あつて之を快諾」している。そして、内田良平慶應義塾柔道部から選抜され部員相手柔道妙技を、父の内田良五郎杖術薙刀の型を、中山博道居合剣術の型それぞれ演じこととし5日午後1時からは予行演習なされた6日午後1時から日比谷三井集会所歓迎会開かれ内田父子中山博道らは日本武術妙技ハリマン一行披露している。一方9月5日から6日にかけて日比谷公園集まった群衆は3万人におよび、市内各所交番派出所襲撃され日比谷焼打事件)、9月6日には首都戒厳令布かれた。9月7日ハリマン一行日本鉄道提供した特別列車日光向かった。そして、首都での暴動鎮まったのち、東京戻り明治天皇拝謁したハリマン一行来日目的は、世界一周する鉄道網完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道買収することであったハリマンは、日本財界大物元老たち、首相らと面会した際、日本ロシア帝国から譲渡され南満洲鉄道権利を、アメリカ資本導入して経営すべきだと主張しアメリカ満洲発言権持てば、仮にロシア復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた9月12日、彼は日本政府対し1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道南満州鉄道連結させ、そこでの鉄道炭坑などに対す共同出資経営参加提案した日本鉄道供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争起こった場合日本の軍事利用認めるというものであり、南満洲鉄道日米均等権利をもつシンジケート経営しようというものであったハリマン提案は、具体的には、 日本内地鉄道合同し標準軌化する工事出資する東清鉄道南支線(南満洲鉄道)について、日本共同出資する 満洲における炭坑経営鴨緑江森林事業への経営参画する 韓国鉄道北清鉄道とを接続する という包括的な内容であったまた、両当事者の仲介役としては、お雇い外国人日本外務省外交顧問であったヘンリー・デニソンが、通信仲介には日本興業銀行添田寿一総裁があたることなどが取り決められた。 この提案を、日本政府好意的に受け止め元老伊藤井上山縣有朋はこの案を承認桂太郎首相南満洲鉄道共同経営案に限って賛成したハリマン提案好意的に受け止められ理由は、ハリマン売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道運営によって得られる収益それほど大きくなく、むしろ日本経済悪影響与える」という意見大蔵省官僚日銀幹部一部に根強かったためであり、「ロシア復讐戦を挑んできた場合日本単独応戦するには荷が重すぎる」という井上馨危惧もその一因であった。なお、陸軍では山縣有朋田中義一満洲経営消極論者多数占め積極論者児玉源太郎少数にすぎなかったのでハリマン提案には反対しなかった。 9月13日日本政府の手ごたえを感じたハリマン一行は、清国韓国観光兼ねた南満洲鉄道実情視察のため東京から神戸移り、そこから朝鮮半島満洲地方へと赴いて各地日本官憲歓迎を受け、10月8日再び東京戻った一方逓信大臣大浦兼武最初から協定の締結反対した数少ない閣僚1人である。大浦伊藤井上らにハリマン提案受け入れないよう説得して回り、これらはいずれ失敗終わったが、仮協定締結前日10月11日彼の最後努力結実した大浦協定締結する前に小村諮問すべきである力説しもそれを受け入れたのである大浦続いてハリマン説得のため、部下平井晴二郎鉄道作業局長官)を彼のもとに派遣した平井ハリマン訪れ、「日本人日比谷焼打事件などの暴動をもってポーツマス条約への不満を示した。ここで今回協定公表されたら、このような社会不安再燃する決まっている。しかも、今回制御が利かなくなる(beyond point of control)」と述べハリマンには、いったん帰国して協定締結のため再来日するよう説得したハリマン日比谷焼打事件目撃していたため、平井説得納得した桂太郎ハリマン帰米直前10月12日仮契約のかたちで予備協定覚書結んで、本契約小村帰国したのち、外交責任者である小村了解得てからのこととした。 ハリマン提案にもっとも賛成した人物元老井上馨であり、これに同調したのが当時財界世話役存在であった渋沢栄一であった三井財閥顧問でもあった井上馨は、南満洲鉄道日米共同出資管理し南満洲一帯日米共同勢力範囲化の構想提唱していた。日本財界は、日本の経済力では下関条約によって割譲された台湾第二次日韓協約によって保護国化した大韓帝国への進出手いっぱい考え満洲経営までは手を広げる自信をもてず、満洲はむしろ日本重荷になるのではないかという悲観的な見通し立っていたのである

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