ハリマンの来日と予備協定の締結
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「桂・ハリマン協定」の記事における「ハリマンの来日と予備協定の締結」の解説
日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道(南満洲鉄道)と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された。しかし、伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるかについては自信がもてなかった。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、日露戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した。 ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版)駐日アメリカ合衆国公使の招きによって、自身の娘をともない、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフらとともに来日した。ハリマン一行がニューヨークを出発したのが8月10日、サンフランシスコを経由して横浜港に到着したのが8月31日であり、外相の小村寿太郎がポーツマス講和会議全権として渡米中のことであった。ハリマンを招いた日本側の事情としては、金融担当者のなかに、近い将来、日本が正貨危機に陥ることは必至だとの観測があったことが挙げられる。ハリマン一行が宿泊したのは、日比谷公園に隣接する帝国ホテルであった。 ハリマン一行は、大蔵省・日本銀行・横浜正金銀行などの職員に出迎えられ、銀行関係者が設けた歓迎の晩餐会に出席したのち、9月1日に東京に入ってからは連日、伏見宮博恭王、桂首相、曽根荒助蔵相、井上馨、渋沢栄一、岩崎弥之助らのもてなしを受け、9月4日にはグリスカム公使主催の大園遊会、5日には曽根蔵相による晩餐会が盛大に開かれた。5日は、ポーツマス条約調印日にあたっており、晩餐会の帰途、ハリマン自身は怪我はなかったものの投石を受け、翌9月6日に予定されていた華族会館での歓迎会は中止された。なお、これに先立ち、ハリマン財団と関係の深かった三井合名会社はハリマン一行の歓迎会を計画しており、その席で日本武術を披露する企画を考えていた。この企画について、益田英作を通じて協力賛助を依頼されていた内田良平は「思ふ所あつて之を快諾」している。そして、内田良平が慶應義塾柔道部から選抜された部員を相手に柔道の妙技を、父の内田良五郎は杖術と薙刀の型を、中山博道が居合と剣術の型をそれぞれ演じることとし、5日午後1時からは予行演習がなされた。6日午後1時から日比谷の三井集会所で歓迎会が開かれ、内田父子や中山博道らは日本武術の妙技をハリマン一行に披露している。一方、9月5日から6日にかけて日比谷公園に集まった群衆は3万人におよび、市内各所の交番・派出所が襲撃され(日比谷焼打事件)、9月6日には首都に戒厳令が布かれた。9月7日、ハリマン一行は日本鉄道が提供した特別列車で日光へ向かった。そして、首都での暴動が鎮まったのち、東京に戻り、明治天皇に拝謁した。 ハリマン一行の来日の目的は、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、南満洲鉄道を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようというものであった。 ハリマン提案は、具体的には、 日本内地の鉄道を合同し、標準軌化する工事に出資する。 東清鉄道南支線(南満洲鉄道)について、日本と共同出資する 満洲における炭坑経営や鴨緑江森林事業への経営に参画する 韓国鉄道と北清鉄道とを接続する という包括的な内容であった。また、両当事者の仲介役としては、お雇い外国人で日本外務省の外交顧問であったヘンリー・デニソンが、通信の仲介には日本興業銀行の添田寿一総裁があたることなどが取り決められた。 この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂太郎首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した。ハリマンの提案が好意的に受け止められた理由は、ハリマンの売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に根強かったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその一因であった。なお、陸軍では山縣有朋や田中義一ら満洲経営消極論者が多数を占め、積極論者は児玉源太郎ら少数にすぎなかったのでハリマン提案には反対しなかった。 9月13日、日本政府の手ごたえを感じたハリマン一行は、清国・韓国の観光を兼ねた南満洲鉄道の実情視察のため東京から神戸に移り、そこから朝鮮半島・満洲地方へと赴いて各地で日本官憲の歓迎を受け、10月8日、再び東京に戻った。 一方、逓信大臣の大浦兼武は最初から協定の締結に反対した数少ない閣僚の1人である。大浦は桂、伊藤、井上らにハリマンの提案を受け入れないよう説得して回り、これらはいずれも失敗に終わったが、仮協定締結前日の10月11日、彼の最後の努力が結実した。大浦は協定を締結する前に小村に諮問すべきであると桂に力説し、桂もそれを受け入れたのである。大浦は続いてハリマンの説得のため、部下の平井晴二郎(鉄道作業局長官)を彼のもとに派遣した。平井はハリマンを訪れ、「日本人は日比谷焼打事件などの暴動をもってポーツマス条約への不満を示した。ここで今回の協定が公表されたら、このような社会不安は再燃するに決まっている。しかも、今回は制御が利かなくなる(beyond point of control)」と述べ、ハリマンには、いったん帰国して本協定締結のため再来日するよう説得した。ハリマンは日比谷焼打事件を目撃していたため、平井の説得に納得した。桂太郎はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、外交責任者である小村の了解を得てからのこととした。 ハリマンの提案にもっとも賛成した人物は元老井上馨であり、これに同調したのが当時財界の世話役的存在であった渋沢栄一であった。三井財閥の顧問でもあった井上馨は、南満洲鉄道を日米共同で出資・管理し、南満洲一帯の日米共同勢力範囲化の構想を提唱していた。日本の財界は、日本の経済力では下関条約によって割譲された台湾と第二次日韓協約によって保護国化した大韓帝国への進出で手いっぱいと考え、満洲経営までは手を広げる自信をもてず、満洲はむしろ日本の重荷になるのではないかという悲観的な見通しに立っていたのである。
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