セリニャンのアルマス: 実現できた夢
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「ジャン・アンリ・ファーブル」の記事における「セリニャンのアルマス: 実現できた夢」の解説
オランジュから県道を北東へ7キロメートルを行くと、葡萄畑の上にセリニャンの屋根と黄土色の壁が表われてくる。東方には特にミストラル(プロヴァンスの大風)が吹き荒れる時には、ファーブルの愛するヴァントゥ山と、その前のひどく侵食された真っ白なモンミラーユのぎざぎざ峰の輪郭がくっきりと見える。この地方は、クレレット、グルナッシュ、イザベル、ジャッケズといった品種の葡萄栽培で知られていた。19世紀の終りには、この辺の住民は特に葡萄、それに生糸の撚糸、オリーヴ油で生計を立てていた。この村は今日でもまだほとんど昔のままの姿を留めている。 ファーブル夫妻は、セリニャンの外れに売りに出された地所があるのを知るとすぐ見学に行った。そこは近所から離れており、蝉や夜鳴きウグイスの鳴き声だけがうるさいといった所だったので、彼らはたちまち気に入った。そこで1879年3月の初めには証書に署名し、待つこともなくそこに移ってきた。 これが最後の引越しで、新しい世界での長くて豊かなエピソードの始まりである。40年前サン・レオンスを両親と出た時の苦難の彷徨とは何という違いであろう。2年前、突然のジュルの死に致命的な打撃を受けたファーブルは、不幸で苦い人生の経験によってかつてないほどの強靭さを得た。やっと巡ってきた穏やかな新しい人生に毅然と立ち向かっていった。 ファーブル夫妻は、セリニャンの外れに売りに出された地所があるのを知るとすぐ見学に行った。そこは近所から離れており、蝉や夜鳴きウグイスの鳴き声だけがうるさいといった所だったので、彼らはたちまち気に入った。そこで1879年3月の初めには証書に署名し、待つこともなくそこに移ってきた。 《 Hoc erat in votis、これだ、私が欲しかったのは》、とファーブルは昆虫記第2巻の導入部に書いている。この95アールほどの土地の大半は、何本かの木が植わった荒れ地で、虫や鳥の天国であり、それがファーブル夫妻の気に入った。桃色の壁の美しい家は、東と西に独立した別館があり、大きすぎも小さすぎもしない丁度の大きさで、乾いた堅固な石灰質の土地に建てられていた。家の前には冷たい水をたたえた湧き水の池があり、夏になると両生類やあらゆる小さな生き物がお客であった。窓の前の二本のプラタナスがなかったならば、家の中の涼気は吹っ飛んで夏の暑さに苦しめられるだろう。こういったものすべてが幸福と思索の隠れ家を構成していた。 ファーブル夫人と娘たちは、すばやく家の中心部を占領した。彼女たちは内部を快適に改造するために、いくつかの素晴らしい作業をした。女性の手は、酷暑やミストラルが吹きつけるしつこい寒さを遮断するために、たちまち必要なところにカーテンを取り付けた。 昆虫学者の要求の応えたこの素晴らしい自然環境と条件について少し話す価値があると思う。ファーブルは科学者となってからずうっと、幸せな家族が寄り添った静かな環境の中で、昆虫学の野外実験場を作ることを望んでいた。孤立した生活は家族のつながりを緊密にしたといえる。一見ファーブルには、孤立したいという欲望と同時に他人に自分の意思を伝えたいというある種の両義性が見られる。アルマスの新しい生活の中で、家族を除けば友人達は大きな位置を占めていた。思索的だが楽天家でもあり、時には無愛想なこの繊細な神経の持ち主は、アルマスで静寂だが孤独ではない生活を送った。ファーブルは人であれ、場所であれ本物を求めており、彼の価値観は他人のそれとは異なっていた。アルマスの門は友達には開かれているが、それ以外には誰も入ることができなかった。半世紀もの間待ちわびたこの条件と場所で、かれの作品は作られていった《ここなら通行人に邪魔されることもなく、ジガバチやアナバチに問いかけたり、難しい対話を実験を通して質問したり、答えさせたりすることに専念できる。ここならば時間を食う遠征や、忙しく動き廻って神経をすり減らすこともなく、攻撃の作戦を練ったり罠をかけて、毎日いつでもその経過をたどることができる。Hoc verat in votis、そうだ、これが私の願いであり、あたため続けてきた夢であり、いつも未来のあいまいさの中に紛れていた夢であった》(2巻、「アルマス」)。 1879年、56歳の時セリニアンに移り住んで、後(1885年、62歳)に最初の妻マリー(64歳)を病気で失い、1887年、64歳で23歳の村の娘ジョゼフィーヌ・ドーテルと再婚する。年齢差40に近いこの結婚が保守的な村人からあまり祝福されなかったことは想像にかたくなく、結婚後しばらくの間アルマスの屋敷に石が投げ込まれることもあった。もっとも再婚した妻との間にも3人の子に恵まれ、家族は8人の大所帯となる。ファーブルは亡妻マリーとの間に7人、後妻のジョゼフィーヌとの間に3人と生涯で10人の子に恵まれたが、最終的にマリーとの子6人に先立たれた(0 - 51歳)。前述にもあるように、1877年にファーブル同様に昆虫や植物に傾倒していた次男ジュールに先立たれた衝撃はとりわけ大きく、『昆虫記』第2巻ではジュールへの献辞を付している。 ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。以後、死去までの36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。 この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。 ファーブルはセリニアン移住後から徐々に有名になっていったのだが、年金による収入はなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも出版当初は必ずしも芳しくなく、さらには教職を辞しお金に苦労していた頃の話が、有名になった後も噂として伝わったので、極貧生活にあえいでいると、この当時からすでに誤解されていた。しかしセリニアン移住後のファーブル家は、極貧どころか使用人を雇える余裕すらあった。後妻 Marie Joséphine Daudel マリー・ジョゼフィーヌ・ドーデルも、そのようにしてファーブル家に雇われていた家政婦だった。また終の棲家となったアルマスも、元々は陸軍旅団長という高級将校の居館で、その地方ではお屋敷と呼ばれるに相応しい邸宅であった。さらにファーブルが極貧にあえいでいるとの噂を聞きつけフランス全土のみならず、ファーブルがどこよりも忌み嫌ったプロシアからすらも多額の義援金がファーブルの元に送付されたが、こうした人の情けを嫌う彼の性格もあり、それらは全て差出人に送り返されている。 このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領レーモン・ポアンカレはそれに応えるように、ファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルだが、最晩年にしてようやく名誉を回復したが、自身は高齢と健康を損なっていたこともあり、横になったままの時期が多くなっていく。1912年、90歳近かったファーブルは40歳年下だった後妻ジョゼフィーヌにも先立たれている。さらに1914年に第一次世界大戦が勃発すると末息子のポール(後妻ジョゼフィーヌとの間の子)も徴兵されてしまった。 1915年5月、既に歩行もままならなくなっていたファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする(彼にとって最後の野外活動となった)。同年10月11日、老衰と尿毒症のため死去(満91歳没)。
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