セリニャンのアルマス: 実現できた夢とは? わかりやすく解説

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セリニャンのアルマス: 実現できた夢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:05 UTC 版)

ジャン・アンリ・ファーブル」の記事における「セリニャンのアルマス: 実現できた夢」の解説

オランジュから県道北東へ7キロメートルを行くと、葡萄畑の上セリニャン屋根黄土色の壁が表われてくる。東方には特にミストラルプロヴァンス大風)が吹き荒れる時にはファーブル愛すヴァントゥ山と、その前のひどく侵食され真っ白なモンミラーユのぎざぎざ峰の輪郭くっきりと見える。この地方は、クレレット、グルナッシュイザベル、ジャッケズといった品種葡萄栽培知られていた。19世紀終りには、この辺住民は特に葡萄、それに生糸撚糸オリーヴ油生計立てていた。この今日でもまだほとんど昔のままの姿を留めている。 ファーブル夫妻は、セリニャン外れ売り出され地所があるのを知るとすぐ見学行った。そこは近所から離れており、夜鳴きウグイス鳴き声だけがうるさいといった所だったので、彼らはたちまち気に入った。そこで1879年3月初めに証書署名し、待つこともなくそこに移ってきた。 これが最後引越しで、新しい世界での長くて豊かなエピソード始まりである。40年前サン・レオンスを両親出た時の苦難彷徨とは何という違いであろう2年前、突然のジュル死に致命的な打撃受けたファーブルは、不幸で苦い人生経験によってかつてないほどの強靭さを得た。やっと巡ってきた穏やかな新し人生毅然と立ち向かっていった。 ファーブル夫妻は、セリニャン外れ売り出され地所があるのを知るとすぐ見学行った。そこは近所から離れており、夜鳴きウグイス鳴き声だけがうるさいといった所だったので、彼らはたちまち気に入った。そこで1879年3月初めに証書署名し、待つこともなくそこに移ってきた。 《 Hoc erat in votis、これだ、私が欲しかったのは》、とファーブル昆虫記第2巻導入部書いている。この95アールほどの土地大半は、何本かの木が植わった荒れ地で、天国であり、それがファーブル夫妻気に入った桃色の壁の美しい家は、東と西に独立した別館があり、大きすぎも小さすぎもしない丁度の大きさで、乾いた堅固な石灰質土地建てられていた。家の前に冷たい水たたえた湧き水の池があり、夏になると両生類あらゆる小さな生き物お客であった。窓の前の二本プラタナスがなかったならば、家の中涼気吹っ飛んで夏の暑さ苦しめられるだろう。こういったものすべてが幸福と思索隠れ家構成していた。 ファーブル夫人娘たちは、すばやく家の中心部占領した彼女たち内部快適に改造するために、いくつかの素晴らし作業をした。女性の手は、酷暑ミストラル吹きつけるしつこい寒さ遮断するために、たちまち必要なところにカーテン取り付けた昆虫学者要求応えたこの素晴らし自然環境条件について少し話す価値があると思う。ファーブル科学者となってからずうっと幸せ家族寄り添った静かな環境の中で、昆虫学野外実験場作ることを望んでいた。孤立した生活は家族つながり緊密にしたといえる一見ファーブルには、孤立したいという欲望同時に他人に自分意思伝えたいというある種両義性見られるアルマス新しい生活の中で、家族除けば友人達大きな位置占めていた。思索的だが楽天家でもあり、時には無愛想なこの繊細な神経の持ち主は、アルマス静寂だが孤独ではない生活を送ったファーブルは人であれ、場所であれ本物求めており、彼の価値観他人のそれとは異なっていた。アルマスの門は友達には開かれているが、それ以外には誰も入ることができなかった。半世紀もの間待ちわびたこの条件と場所で、かれの作品作られていった《ここなら通行人邪魔されるともなくジガバチアナバチ問いかけたり、難し対話実験通して質問したり、答えさせたりすることに専念できる。ここならば時間を食う遠征や、忙しく動き廻って神経すり減らすともなく攻撃の作戦練ったり罠をかけて、毎日いつでもその経過をたどることができる。Hoc verat in votis、そうだ、これが私の願いであり、あたため続けてきた夢であり、いつも未来あいまいさ中に紛れていた夢であった》(2巻、「アルマス」)。 1879年56歳の時セリニアン移り住んで、後(1885年62歳)に最初の妻マリー64歳)を病気失い1887年64歳23歳の娘ジョゼフィーヌ・ドーテルと再婚する年齢差40に近いこの結婚保守的な村人からあまり祝福されなかったことは想像かたくなく、結婚しばらくの間アルマス屋敷に石が投げ込まれることもあった。もっとも再婚した妻との間にも3人の子恵まれ家族は8人の大所帯となる。ファーブル亡妻マリーとの間に7人、後妻ジョゼフィーヌとの間に3人と生涯10人の子恵まれたが、最終的にマリーの子6人に先立たれた(0 - 51歳)。前述にもあるように、1877年ファーブル同様に昆虫植物傾倒していた次男ジュール先立たれ衝撃とりわけ大きく、『昆虫記第2巻ではジュールへの献辞付している。 ファーブルが自らアルマス名付けたセリニアン自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブル世界中から様々な草木取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛け設置した以後死去まで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫研究没頭した。 この時期ファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂い引かれ相手探し出すということ突き止めた試しに部屋メスヤママユ置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスヤママユ部屋乱舞したという。 ファーブルセリニアン移住後から徐々に有名になっていったのだが、年金による収入はなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行き出版当初は必ずしも芳しくなく、さらには教職辞しお金苦労していた頃の話が、有名になった後も噂として伝わったので、極貧生活にあえいでいると、この当時からすで誤解されていた。しかしセリニアン移住後ファーブル家は、極貧どころか使用人雇え余裕すらあった。後妻 Marie Joséphine Daudel マリー・ジョゼフィーヌ・ドーデルも、そのようにしてファーブル家に雇われていた家政婦だった。また終の棲家となったアルマスも、元々は陸軍旅団長という高級将校居館で、その地方ではお屋敷呼ばれる相応し邸宅であった。さらにファーブル極貧あえいでいるとの噂を聞きつけフランス全土のみならずファーブルがどこよりも忌み嫌ったプロシアからすらも多額義援金ファーブル元に送付されたが、こうした人の情けを嫌う彼の性格もあり、それらは全て差出人送り返されている。 このころヨーロッパ全土ファーブル救えという運動起き1910年当時フランス大統領レーモン・ポアンカレはそれに応えるように、ファーブルに年2,000フラン年金と第5等レジオンドヌール勲章与えた当時85歳超えていたファーブルだが、最晩年にしてようやく名誉を回復したが、自身高齢と健康を損なっていたこともあり、横になったままの時期多くなっていく。1912年90近かったファーブル40歳年下だった後妻ジョゼフィーヌにも先立たれている。さらに1914年第一次世界大戦勃発すると末息子ポール後妻ジョゼフィーヌとの間の子)も徴兵されてしまった。 1915年5月、既に歩行もままならなくなっていたファーブル担架乗せられて、アルマスの庭を一巡りする彼にとって最後野外活動となった)。同年10月11日老衰尿毒症のため死去(満91歳没)。

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