水田三喜男 水田三喜男の概要

水田三喜男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 14:01 UTC 版)

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水田三喜男
みずた みきお
1962年頃に撮影
生年月日 1905年4月13日
出生地 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市
没年月日 (1976-12-22) 1976年12月22日(71歳没)
死没地 東京都文京区
出身校 京都帝国大学(現・京都大学
前職 城西大学理事長
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章
親族 父・水田信太郎
娘・水田宗子

第75代 大蔵大臣
内閣 第3次佐藤内閣改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1972年7月7日

第71-72代 大蔵大臣
内閣 第1次佐藤内閣第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
第2次佐藤内閣第1次改造内閣
在任期間 1966年12月3日 - 1968年11月30日

第65-66代 大蔵大臣
内閣 第1次池田内閣
第2次池田内閣
第2次池田内閣第1次改造内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1962年7月18日

選挙区 千葉県第3区
当選回数 13回
在任期間 1946年4月11日 - 1976年12月22日
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来歴・人物

千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。

旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。学生時代はマルクスボーイで、柔道5段、剣道3段の腕前から当時京大教授の河上肇のボディーガードを買って出て、1度ならず検挙された。

1931年卒業後は、東京市職員を振り出しに、専修大学講師、北越石油監査役、日本鋼板常務、大同石油取締役を経て、1946年第22回衆議院議員総選挙に当選、以後13回連続当選を果たす(当選同期に小坂善太郎二階堂進江崎真澄小沢佐重喜石井光次郎坂田道太原健三郎川崎秀二井出一太郎早川崇中野四郎など)。

1953年第4次吉田内閣経済審議庁長官として初入閣。自由党では何度も政調会長に選ばれ、義理人情の党人派が多い大野伴睦派にあって政策通として活躍。保守合同直後の1955年自民党党三役の一つ初代政調会長に就任。1956年1957年石橋内閣通商産業大臣産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任。1957年第1次岸内閣でも通産相を務める。

1960年、第1次池田勇人内閣で大蔵大臣に就任。積極財政論者として池田の所得倍増政策に共鳴し、推進役となる。

第2次池田内閣で引き続き留任し、輸入増大に伴う国際収支の悪化を防ぐべく、財政・金融の引き締めを行った[1]。続く佐藤栄作政権では第1次~第3次内閣に渡って福田赳夫と交互に蔵相を務め[2]、福田と並んで言わば日本の高度経済成長期を象徴する財政家の一人であった。殊に佐藤栄作政権末期に起こった、いわゆるニクソン・ショックでは為替相場安定に腐心し、変動相場制へと動く過渡期の国際金融情勢下で日本の財政を舵取りした人物として知られる。

大野の死後、大野派が船田中派(一新会)と村上勇派(一陽会)に分裂した際には船田派に参加する。しかし1971年に村上が旧大野派の大同団結に動くと、これに呼応して船田派から離脱。更に藤山愛一郎派(愛正会)まで包含して水田派(巽会)を結成し、中間派の領袖として影響力を持った(江崎真澄ら藤山派の大部分は水田派に合流したが、藤山と竹内黎一は参加せず無派閥となった)。1975年11月、スペインフランコ総統の国葬に特派大使として派遣された。

1976年の第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たした直後、穿孔性腹膜炎のため[3]急逝する。71歳没。財政実務経験豊富な水田の死去は「巨星堕つ」と形容された。佐藤栄作夫人の佐藤寛子は水田の追悼集で「大蔵大臣といえば、戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」と評している[4]。政治活動のかたわら教育にも強い関心を抱き続け、1965年城西大学を創立した。

エピソード

  • 池田内閣で入閣した頃から額に大仏の様なが出来、一時は水田のトレードマークとして知られ長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタにされ[5]たりもしている。ただ、1973年に手術で瘤を切除している。
  • 東洲斎写楽をはじめとする浮世絵のコレクターとしても知られ、現在でも城西大学と城西国際大学にそれぞれ建てられた水田美術館でそのコレクションを見ることができる。
  • 経団連会長の石坂泰三もう、きみには頼まないという有名になった言葉は、水田が蔵相在任中に石坂の要望の解かり難さを言った際に浴びせられたものである。



  1. ^ 1962年1月19日の演説 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
  2. ^ 「自分が引き締め策で国際収支を良くすると、その後で大盤振る舞いしていい子になれるのが福田君であり田中君だ」と語っていたという。水田宗子の人生ノート
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)27頁
  4. ^ 岸本正人「急募『平成の水田』」 『毎日新聞』、2009年12月10日、12版、9面。
  5. ^ ニクソン・ショックでの日米蔵相会談について会話していたのをふと物忘れし、焼いていたが膨らんで水田の瘤を連想して思い出したというもの。
  6. ^ a b 水田宗子の人生ノート -『偽らず、欺かず、諂わず』「水田三喜男の次女として」 (PDF) 埼玉新聞 水田宗子の人生ノート 2010年1月18日付


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