2代目の庁舎
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「インディアナ州会議事堂」の記事における「2代目の庁舎」の解説
1824年12月に州政府がインディアナポリスに移転した時、州政府はマリオン郡地方裁判所内に置かれた。この地方裁判所の庁舎はインディアナポリスが新しい州都に決まった後、1822年に、州の財政支出で建てられたものであった。この庁舎は12年にわたって、インディアナ州会議事堂として使われた。当時のインディアナポリスは、最も近い主要な入植地からでも約60マイル(96km)離れた辺境の地で、大規模な建設は現実的ではなかった。 インディアナポリスへの遷都は困難なものであった。当時、コリードンからインディアナポリスまでは馬で11日を要した。その上、コリードンとインディアナポリスを結ぶ道は無く、インディアナポリスを目指して北へ向かう一行は、冬の深い森の中を荷馬車で長い列を成して進んでいくしかなかった。一行は州の財源、書籍、記録文書、および州議会、州最高裁判所、州政府各局の備品を、長い道中の必需品と共にすべて荷馬車に積んでインディアナポリスへ向かったため、その隊は必然的に大きなものになった。州議会の承認の下、一行の監督にあたったのは州の出納局長を務めていたサミュエル・メリルであった。一行がインディアナポリスにたどり着くまでには1ヶ月を要した。州会が初めてインディアナポリスで開催されたのは、年が明けた1825年1月であった。
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2代目の庁舎
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1872年、オレゴン州議会は新しい州会議事堂の建設予算として100,000ドル(当時)を計上し、新庁舎の建設計画は実行に移された。セーラム遷都以来2代目となるこの庁舎は1873年から1876年にかけて建設された。この庁舎は地上2階、地下1階の3階層を有していた。この庁舎の建設には325,000ドル(当時)の費用を要した。この庁舎の礎石は1873年10月5日、竣工式の最中に設置された。竣工式では州知事スティーブン・F・チャッドウィックによる演説や、何組かのバンドによる演奏が行われた。この2代目の庁舎は初代の庁舎と同じ敷地内に建設された。建設作業にはオレゴン州刑務所の囚人も動員された。設計にはジャスタス・F・クランベイン・アンド・ギルバート建築事務所が携わった。 石材と500万個のレンガを使用して造られたこの庁舎は幅84m、奥行き41m、高さ55m(ドームを含む)であった。地下1階には州南西部のアムクワ川流域で産出された砂岩が用いられた。内部には高さ16.5mの正方形のロタンダを有し、上下両院の本会議場が置かれていた。2階にはオレゴン州最高裁判所、オレゴン州法図書館、下院本会議場の傍聴席が設けられていた。外観には装飾として付柱が設置され、東西両端に2階層分の高さのポルチコが立てられていた。庁舎内には昼食を出すカウンター席も用意されていた。加えて、この庁舎は方立のついた窓が設けられたウイングを有していた。銅で覆われた大きなドームは鉄や鋼のフレームを用いた構造になっていた。ドームはこの庁舎の他の部分よりも16.5m高い位置に設置され、ドーム自体の高さは30.5mあった。このルネサンス様式の庁舎は連邦議会議事堂を真似て造られ、正面入口にはコリント式の柱が立てられていた。当時、議事堂は西向きに、ウィラメット川に向かうように造られた。州政府はドームが完成する前、1876年8月にこの議事堂を使用し始めた。当初の計画では、ドームの両側に塔が建てられる予定であったが、建設費用を抑えるためにそれらの塔の建設は見送られた。この2代目の庁舎は1935年まで使用された。 1935年4月25日午後6時43分、管理技術者がセーラム市消防局に煙の発生を報告した。市民は煙に包まれた庁舎から物品を運び出すのを手伝ったが、消防士が到着したときには、庁舎内から全員退去するように指示された。庁舎は間もなく炎に包まれた。物品の運び出しを手伝った市民の中には、後にオレゴン州知事になった、当時12歳のマーク・ハットフィールド少年もいた。火元は東ウイングの地下1階で、積まれていた古い文書に燃え広がったものと断定された。炎はドームの鉄格子の梁を支えていた中空の柱を伝い、ロタンダから上階へと広がっていった。激しい炎は銅製のドームをも焼き、夜空を照らした。炎は遠くコーバリスからも見えた。ボランティアで消火活動にあたっていたウィラメット大学の学生、フロイド・マクミュレンがその最中に焼死すると、消防士はポートランドからも派遣された。現場にはセーラム市内から7台、さらにポートランドから3台の消防車が駆けつけた。 鎮火したときには、残っていたのは庁舎の外壁のみであった。この火事による被害額は約150万ドルと推定された。州政府は保険には入っていなかった。歴代知事の肖像画などの歴史的な物品や、耐火構造になっていなかった地下の金庫に保管されていた、100万ドルを超える株式・債券などの貴重品も失われた。消火作業の最中、消防士は金庫に水を注ぎ、中に保管されている物品が燃えることのないように努めていた。多くの歴史的な文書は火事の前年にポートランドのオレゴン歴史協会に渡され、そこで保管されていたため、この火事による焼失を免れた。オレゴン州最高裁判所は1914年に別の庁舎に移転していたが、州会議事堂とは電気や暖房を供給するための地下トンネルでつながっていた。当時、オレゴン州立図書館は州最高裁判所庁舎の1階と地下のスペースを使っていた。議事堂庁舎の消火活動の際に使用された水が地下トンネルを伝って最高裁判所庁舎に流れ込んできたため、地下に保管されていた多くの蔵書は水浸しになった。議事堂に置かれていた各事務所は、新しい庁舎が建てられるまでの間、他の州政府機関の庁舎や、セーラムのダウンタウンでリースした部屋に移転した。
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2代目の庁舎
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1835年に州昇格を見越して制定されたミシガン州憲法には、次のように記されている。 The seat of government for this state shall be at Detroit, or at such other place or places as may be prescribed by law until the year eighteen hundred and forty-seven, when it shall be permanently located by the legislature. (訳)この州の政庁は、1847年まで、デトロイトもしくはその他法によって定める場所に置く。1847年には、立法府により恒久的な所在地が定められる。 1847年以前、デトロイトは州都をその管轄圏内に堅持すべく争ってきたが、州西部の人口増加に加え、防衛強化のために州政府を米加国境から離れた場所に置くことが望まれるようになったことなどから、州都を内陸に移す機運が高まっていった。デトロイトは1812年に始まった米英戦争の際にイギリスに占領され、デトロイト川の両岸、米加国境から1マイル以内のミシガン側の地域およびカナダ側のウィンザーはその後もイギリスの占領下に置かれていた。また、州都を内陸に移すことで、内陸部への入植を促すことや、州内の至るところから州都にたどりつきやすくする狙いもあった。 新しい州都の候補としてはアナーバー、ジャクソン、グランドラピッズが挙がった。また、議論中には、マーシャルの代表が州都選出を確信し、州知事官邸を建てた。延長までなされた議論の末、インガム郡選出の州上院議員ジョセフ・H・キルボーンは、当時ほとんど無人に近かったランシング・タウンシップに州都を移すことを提案した。アナーバーの北、デトロイトの西、グランドラピッズの東というランシング・タウンシップの位置が最適な妥協案と考えた州政府は、この提案を承認し、ランシング・タウンシップをミシガン町に改名して州都に定めた。1848年には、ミシガン町はもとのランシングという名に戻された。 ランシングの州会議事堂は1847年に仮の庁舎として建設が始まった。この庁舎は簡素な木造2階建てで白く塗られ、緑色の木製の枠にはめられた窓と真鍮のキューポラがついていた。この庁舎の建設には22,952ドル1セント(当時)の費用を要した。この庁舎は1879年に本庁舎が完成すると売却され、その後は1882年に焼失するまで工場として使われた。
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