鳥羽方面での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「鳥羽方面での戦闘」の解説
3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら小枝橋付近で両軍は対峙した。通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過し、大目付の滝川具挙の家臣が騎馬で駆け抜けようとするも阻まれ断念、業を煮やした旧幕府軍は午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥った。[要出典] 旧幕府軍は慶喜参内にあたって軽装(少数のお供)でくるよういわれていたので、それなら幸いと先供を進軍させていた。慶喜が朝命(明治天皇の頼み)に従い御所へ参内するにあたって、島津家文書の『慶明雑録』では旧幕府軍は薩摩藩との戦闘を京都に入った後で行う認識だったとし、『村摂記』では旧幕府軍側は京都に入るまでは平穏に行軍するよう慶喜から命令されていたとする。 京都見廻組400名、幕府陸軍歩兵第一連隊、歩兵第五連隊、伝習第一大隊、砲6門、桑名兵4個中隊、砲6門をはじめとする、旧幕府軍が鳥羽街道を北上した。先頭を進んでいたのは大目付滝川具挙の護衛として行軍する京都見廻組であった。滝川具挙は討薩表を朝廷に提出するための使者であるため、軍の指揮権は有さないはずであったが、実際には滝川具挙が鳥羽街道方面の指揮を執っていたとみられている。代わりに本来鳥羽街道方面の指揮官であった竹中重固は伏見にいた。見廻組は和装に甲冑や鎖帷子を身につけ、刀槍を装備し、銃は持っていなかった。3日午前、街道を封鎖するために南下する薩摩軍の斥候と京都見廻組の先発隊が接触した。見廻組は慶喜の先供であるとして通行の許可を求めたが薩摩軍斥候はそれを認めず、可否を京都に問い合わせるためそれまで控えるようにと回答した。そのため見廻組は一旦控えるということで、小枝橋を渡って鴨川左岸へ引き返した。薩摩軍はこれを追尾して前進し、鴨川を越え、小銃五番隊、外城一番隊、外城二番隊、外城三番隊の4個小銃隊および一番砲隊の半隊砲4門が鴨川左岸に展開した。小銃六番隊は鴨川を越えず、右岸の小枝橋付近に潜伏した。旧幕府軍は小枝橋の南、鳥羽街道の赤池付近を先頭に行軍隊形のまま停止した。 滝川具挙は薩摩側の代表、椎原小弥太と山口仲吾に通行許可を求めたが薩摩軍は朝廷へ問い合わせ中であるとしてそれを認めなかった。『昔夢会筆記』での徳川慶喜の証言によればこの交渉を行ったのは滝川ではなく竹中重固であるとされている。このような交渉が繰り返されたが状況は変わらず、午後5時頃、滝川は「最早や夕刻ともなるによって、強行して入京す」と最後通告を行ない、これに対して椎原が「われわれは朝命を奉じ、この地を守るものゆえ臨機の応対を仕る」と答えた。そこで、旧幕府軍は封鎖を強行突破するため縦隊で行軍を開始した。椎原、山口が自陣へ走り「手切れだ」と叫ぶと薩摩軍は合図のラッパを吹き、それと共に一斉に射撃を開始した。 そのため旧幕府軍は隊列の前から薩摩軍に潰された。薩摩軍は左右の藪へすでに兵士を回してあり、こうして関門を置いて旧幕府軍を前と左右から生け捕り状態に奇襲の罠にかけつつ先制攻撃をしかけたため、旧幕府軍は残らず潰滅させられかけた。 薩摩軍砲兵の砲撃が先頭に砲列を布いていた旧幕府軍の3門の砲車のうちの1門に命中し大爆発を起こした。これに滝川具挙の乗馬が驚き、滝川具挙を乗せたまま後方に向けて走り出し、街道上の友軍をかき乱しながら戦場を離脱した。旧幕府軍は強行突破はしようとしていたものの、この段階での戦闘を予期しておらず、行軍隊形のままで、小銃にも弾薬を装填していなかった。激しい射撃により死傷者が続出した旧幕府軍の先頭の部隊は大混乱に陥り、一部の小隊のみが応戦した。また、1門を撃破された残りの2門の砲も応射したが薩摩軍砲兵の集中砲火を受けて制圧された。京都見廻組も混乱状態となったが、与頭の佐々木只三郎によって叱咤されて指揮統制を回復し、前方の薩摩軍へ向けて突撃前進した。薩摩軍の射撃によって突撃は撃退されたが、この間に旧幕府軍は体勢を立て直し、部隊を戦闘隊形に展開し始めた。幕府陸軍歩兵第一連隊、続いて桑名兵など旧幕府軍部隊が続々と攻撃前進し、桑名藩の砲兵も到着し、砲撃を始めた。しかし、薩摩軍は凹型に展開しており、旧幕府軍は前進すると包囲の中に飛び込む形となり、前方および左右から射撃を浴びることとなった。そのため旧幕府軍の一部は薩摩軍最左翼の外城一番隊を攻撃し始めたが、そこへ長州軍の一個小隊が増援として到着し、薩摩軍左翼のさらに左に展開して、攻撃中の旧幕府軍の右側面を射撃したため、攻撃は撃退された。旧幕府軍主力の薩摩軍中央への攻撃も大損害を受けて頓挫し、旧幕府軍は下鳥羽方面へ後退した。下鳥羽には公卿の菊亭家の米蔵があり、そこにあった米俵を使って幕府陸軍の築造兵(工兵)が陣地を構築し、旧幕府軍はその陣地に入って宿営した。薩長軍は下鳥羽に旧幕府軍陣地があることを発見すると夜戦を避けてこれを深追いせず、元の位置を陣地としてそこにとどまった。 4日午前5時頃、旧幕府軍は下鳥羽の陣地を出て薩摩軍陣地を攻撃した。旧幕府軍は前日に大損害を受けた第一連隊に代わって第十一連隊と砲4門を第一線として攻撃前進した。(第七連隊と第十二連隊の2個連隊との説もある)薩摩軍は私領二番隊が戦列に加わり、一部の部隊の位置が入れ替わった他は前日同様の配置であったが旧幕府軍は前日同様、戦線の中央突破を図ったため、包囲に飛び込む形となり、前方と左右より射撃を受けた。そのため旧幕府軍の両翼の部隊は向きを変えて応戦したが、中央の部隊はなおも突進して薩摩軍中央の小銃五番隊、私領二番隊に迫り、猛烈な射撃を加えた。しかし薩摩軍はこれを持ちこたえ、旧幕府軍は戦線を突破することができなかった。しばらく両軍の間で火戦が行われたが、次第に旧幕府軍の損害が増え、旧幕府軍は攻撃を断念して下鳥羽の陣地へと後退した。この戦闘において、馬上で第十一連隊を指揮していた幕府陸軍歩兵奉行並の佐久間信久が狙撃され、戦死した。午前8時頃薩摩軍は攻勢に転じ、下鳥羽の旧幕府軍陣地を攻撃した。この間、旧幕府軍は損害を受けた第十一連隊に代わって第十二連隊を前面に出して再度攻勢に出るつもりであったが、その前に薩摩軍の攻撃を受け、防御戦闘を行った。旧幕府軍は米俵を胸壁としつつ薩摩軍に激しい射撃を浴びせ、薩摩軍は陣地に近づくことができなかった。薩摩軍は散兵で射撃し、そのうち小銃六番隊は一人あたり100発以上の射撃を行うなど、激しい火戦が行われたが戦線を崩すことはできなかった。そのため、薩摩軍は一旦後退して弾薬を補充した後、再度攻撃前進した。今度は小銃隊からの支援要請により小銃隊だけでなく砲隊も前進した。砲戦をしつつ前進した砲隊は4門の砲のうち2門が途中で破損したが、残りの2門が旧幕府軍陣地近くまで進出し、至近距離から榴弾を撃ち込み、米俵でできた胸壁を吹き飛ばして破口を作り、また旧幕府軍の砲台を制圧した。正午過ぎには薩摩軍の増援として兵具方一番隊と一番遊撃隊が到着した。加えて、伏見からも小銃一番隊が転進し、薩摩軍最左翼の外城二番隊と協力して南下し、旧幕府軍の右側面を攻撃した。これにより旧幕府軍は前方と右側面より包囲されることとなった。旧幕府軍はしばらくは持ちこたえたものの、午後2時頃、富ノ森方面へ後退した。この戦闘で幕府陸軍第十二連隊長窪田鎮章および連隊副長秋山鉄太郎が戦死した。富ノ森には築造兵が酒樽に土砂を詰めて畳や戸板などを積み重ねて胸壁とした陣地を構築しており、後退した旧幕府軍はその陣地に入った。 旧幕府軍の後退を受けて薩長軍は追撃に移り、私領二番隊、兵具方一番隊、一番遊撃隊、伏見から転進してきた三番遊撃隊、長州軍第三中隊が追撃を行った。午後4時頃、薩長軍は富ノ森の陣地を攻撃したが、陣地には旧幕府軍の小規模な一部隊しか残っておらず、主力は淀方面へと後退していたため陣地は容易に占領された。その後、薩長軍は後退する旧幕府軍をさらに追撃した。薩長軍の進撃路である鳥羽街道は桂川の堤防になっており、右手は近くに桂川が流れており、左手は横大路沼から続く湿地と田畑が混在する地形であった。そのため薩長軍は部隊を広く展開することができず、狭い進撃路を進まざるを得なかった。薩長軍が街道を進んでいくと、前方の納所に旧幕府軍の陣地が構築されており、そこから砲撃を受けた。また横大路沼を挟んだ南東の伏見街道、淀堤にも旧幕府軍の砲台があり、その砲台からも砲撃を受け、薩長軍は前方と左側面からの十字砲火を浴びることとなった。さらに、湿地帯の枯れた蘆荻の茂みには会津藩や大垣藩の部隊が少人数に分かれて潜伏しており、薩長軍の隊列が近づくと茂みから飛び出して槍や刀で薩長軍部隊の側面から斬り込み攻撃を行った。これらの砲撃と待ち伏せ攻撃によって薩長軍部隊は混乱し、後退しはじめた。これを見た旧幕府軍は薩長軍を追撃し、余勢を駆って富ノ森の陣地を奪還した。これらの経緯から当初旧幕府軍主力が富ノ森の陣地から撤退したのは薩長軍を待ち伏せに誘い込むための計略であった可能性を指摘する意見もある。薩長軍はさらに後退し、旧幕府軍はこれを追撃したが、薩摩軍の小銃三番隊と二番砲隊が増援として到着し、射撃を行って友軍の退却を援護すると、旧幕府軍はそれ以上の追撃を止めて富ノ森の陣地に入った。すでに日没近くでありこの日の鳥羽方面の戦闘はこれで終わった。 5日朝、薩長軍は再度攻勢に転じた。薩摩軍小銃三番隊、小銃五番隊、小銃六番隊、外城二番隊、一番砲隊、二番砲隊、長州軍第三中隊が鳥羽街道方面の部隊として編成された。午前7時頃、薩長軍の小銃隊が富ノ森の旧幕府軍陣地への攻撃を開始した。これに対して旧幕府軍は砲と小銃により全力で射撃を行って抵抗し、薩長軍には弾丸が雨のように降り注いだ。薩長軍は苦戦し、小銃五番隊監軍椎原小弥太、小銃六番隊隊長市来勘兵衛もこの戦闘で戦死した。小銃隊のみによる陣地攻略が困難なことから、砲兵による支援が要請され、大山弥助(大山巌)率いる二番砲隊砲6門が第一線に進出し、砲撃を開始した。この間、二番砲隊は旧幕府軍の歩兵が集結して逆襲に出る兆候があることを発見し、急遽取り寄せた臼砲による射撃でこれを阻止した。しかし、二番砲隊も旧幕府軍の激しい射撃を受け、敵弾を避けるために一時は伏せながら戦闘を行わざるを得なかった。加えて、突然側面より旧幕府軍部隊の斬り込み攻撃を受けて白兵戦にも巻き込まれるなど苦戦を強いられ、死傷者が続出した。また、事故や被弾によって多数の砲が損傷し、砲兵として戦闘を継続することができなくなった。そこで二番砲隊は小銃を執って小銃兵として前進した。連戦の一番砲隊は当初後方で補給と休息を行っていたが、二番砲隊苦戦の報を受け、臼砲2門と砲5門をもって第一線に進出した。一番砲隊は旧幕府軍陣地の至近距離まで進出して榴弾や散弾を撃ち込んで打撃を与えた。これらの砲撃と小銃隊の突撃により旧幕府軍は後退を始めた。薩長軍はこれを追撃し、旧幕府軍後方の納所の陣地も陥落させたため、旧幕府軍はさらに淀方面へ向けて後退した。 高浜砲台の守備に入っていた津藩主・藤堂元施は山崎の関門を固めていた。始まった戦が2、3日ほど続くと、藤堂の守っている関門あたりまで旧幕府軍の前線が引いてきた。薩摩藩兵の使いが藤堂のところへきて新政府軍として参戦するよう説得すると、津藩兵は旧幕府軍を撃ち始めた。旧幕府軍は味方と思っていた津藩兵から砲撃を受け、山崎に陣を張ることができなくなり、そこから後退していった。
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