鳥羽法皇崩御とは? わかりやすく解説

鳥羽法皇崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)

保元の乱」の記事における「鳥羽法皇崩御」の解説

新体制成立すると、後白河藤原忻子守仁姝子内親王婚姻相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家出身で、姝子内親王美福門院の娘だが統子内親王待賢門院の娘、後白河同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂修復するとともに崇徳・頼長の支持勢力切り崩す狙いがあったと考えられる。 ところが、新体制基盤がまだ固まらない保元元年1156年5月鳥羽法皇が病に倒れた法皇権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能今後の対応策を促したに対して病床鳥羽法皇源為義平清盛北面武士10名に祭文誓約書)を書かせて美福門院差し出させたという。為義忠実家人であり、清盛亡父忠盛重仁親王後見だった。法皇死後美福門院に従うかどうか不透明であり、法皇存命中に前もって忠誠誓わせる必要があったと見られる法皇容態絶望的になった6月1日法皇のいる鳥羽殿源光保平盛兼中心とする有力北面後白河里内裏高松殿を河内源氏源義朝源義康が、それぞれ随兵率いて警護始めた(『兵範記7月5日条)。 それから1ヶ月後、7月2日申の刻午後4時頃)に鳥羽法皇崩御した。崇徳上皇臨終直前見舞い訪れたが、対面はできなかった。『古事談によれば法皇側近藤原惟方自身遺体崇徳見せないよう言残したという。崇徳上皇憤慨して鳥羽田中殿引き返した葬儀酉の刻午後8時頃)より少数近臣執り行った

※この「鳥羽法皇崩御」の解説は、「保元の乱」の解説の一部です。
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