豊臣吉子とは? わかりやすく解説

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高台院

(豊臣吉子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 22:38 UTC 版)

こうだいいん/ねね

高台院/寧々
『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)
生誕 天文18年(1549年)?
死没 寛永元年9月6日1624年10月17日
別名 北政所、おね
配偶者 豊臣秀吉
子供 養子:利次
父∶杉原定利
母∶朝日殿
養父∶浅野長勝
親戚 兄弟∶木下家定
姉妹∶長慶院高台院長生院
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高台院(こうだいいん、天文18年(1549年[注釈 1] - 寛永元年9月6日1624年10月17日))は、戦国時代室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

概要

一般には北政所(きたのまんどころ)という通称で知られる。「北政所」と呼ばれた人物は歴史上数多く存在したが、彼女以降はこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。

戦国時代まで、主婦権を持つ正妻が武家の家政をとり行い、高台院も羽柴家の家政をとりしきっていた。

には諸説ある。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「おね」と呼ばれることが多い(諱についての論議参照)。また甥にあたる木下利房備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されていることから「ねい」説もある。しかし、近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認され、再び「ねね」説が浮上している[1]。ただし、この手紙についても秀吉からの愛称が「ねね」であり、むしろ諱ではないことを示しているとする反論もある[2]

天正16年(1588年)、従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(を参照)[3]。法名は高台院湖月心公

生涯

幼少時

杉原定利朝日殿の次女として尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)に生まれる。兄弟は木下家定長生院杉原くま。のちに叔母・ふくの嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の愛知県津島市)の浅野長勝の養女となる。

生年については『寛政譜』の浅野氏系譜を根拠とする天文11年説、『足守家譜』及び渡辺世祐の『豊太閤と其家族』を根拠とする天文17年説、『寛永伝』木下氏系譜を根拠とする天文18年説がある。天文11年説は浅野氏に伝わる伝承であるが、兄の木下家定よりも年長になってしまうという問題点がある。天文17年説の典拠とされる『足守家譜』は現存せず(現存の『木下家譜』とは別物か)、『豊太閤と其家族』の記述も生年を天文17年としながら、享年を76歳としている(寛永元年没は通説通りのため、同説に従えば享年は77歳の筈である)。天文18年説の根拠とされる『寛永伝』が完成したのは高台院の死から19年後のことである。その後、福田千鶴が高台院の養子である木下利次が寛文6年(1666年)になって竺隠崇五に依頼して自己所有の高台院の画像(現在名古屋市秀吉清正記念館所蔵)に画賛を書き加えさせた際に「春穐(秋)七十有六」と記されていることから、天文18年説が正しいと断定した[注釈 2][4]。黒田基樹もこの見解に同意し、天文18年説で確定したと述べている[5]

秀吉との結婚

永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されるも、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため無事に嫁いだ(通説では14歳)。また、中川重政の妹で名古屋山三郎の母である養雲院は、ねねに読み書きを教えていたが、その夫である名古屋因幡守高久も「藤吉は唯人ではないので(ねねを嫁に)おやりになりませ」とねねの父に指示し、信長にも秀吉のことを執り成したという[6]。当時としては珍しい恋愛結婚であった。結婚式は周囲に反対されたことと夫の身分の低さから藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった[7][注釈 3]。ふたりの間には子供がなかったので、加藤清正福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。

永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取り、石松丸秀勝をなしている[注釈 4]

天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城にいたようで、明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている[10]

北政所

北政所黒印状(孝蔵主奉書)
摂津三田藩藩主・有馬則頼に北政所が融資していた黄金五枚が無事返済されたことを記した天正十八年十一月二十四日付の証書。差出人は豊臣家筆頭奥女中・孝蔵主。北政所所用の黒印を据えた仮名消息の体裁をとっている。紙本墨書。名古屋市博物館収蔵。

その後、秀吉とともに大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担った。この頃、何らかの症状による便秘に苦しんでおり、10月24日付のおね宛ての秀吉の書状の中で、「大便」の文字が三度、「下くだし」(下痢)の語が二度でてくる[11]

天正16年4月14日1588年5月9日)、後陽成天皇は秀吉の招きによる聚楽第行幸に至り、5日後無事に還幸すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位准三后に叙せられ、豊臣吉子(とよとみのよしこ)の姓名を賜った。

天正20年(1592年)、秀吉から所領を与えられており、平野荘に約2,370石、天王寺に3,980石、喜連村約1,405石、中川村約491石など、合計1万1石7斗であった[12]

文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役で秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。

秀吉の没後

慶長3年8月18日1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。武断派の七将が石田三成を襲撃した時に徳川家康は最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている[13]。慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住した(「義演准后日記」「言経卿記」)。関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により准后勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件があった。

関ヶ原合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した(「三本木」(現京都御苑内南西付近)に隠棲したとの説があるが根拠不明)。元和初期の様子を描いたとされる地図「中むかし公家町之図」ではほぼ現在の京都御苑仙洞御所大宮御所エリアを「高台院殿(屋敷)」とし、その南方には使用人の住居と思われる「高台院殿町屋」が建ち並んでおり、隠棲後の暮らしぶりの一端をうかがわせる。秀吉から河内国内に与えられていた大名並みの1万5,672石余の広大な領地は、合戦後の慶長9年に養老料として徳川家康から安堵されている。この時石高は1万6,346石余に微増。

慶長8年(1603年)、養母の死と、秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。慶長10年(1605年)、実母と秀吉の冥福を祈るために、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立し、その門前に屋敷を構えた。大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた[14]。そして、身動きを封じられたまま元和元年(1615年)、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活した。)。だが徳川家との関係は極めて良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。また公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物が御所に届けられたことが、『御湯殿上日記』から知れる。

寛永元年9月6日1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年76(77、83の諸説があり。)なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。

墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されている。 大正14年(1925年)、豊国神社本殿の南隣に、北政所を祀る摂社として、「従一位准后北政所豊臣吉子命」を祭神に貞照神社(さだてるじんじゃ)が創建された。正月3が日のみ参拝可。

人物

  • 実母の朝日は、秀吉との婚姻を周囲の反対にもかかわらず密かに結ばれた野合であるとして、生涯認めることはなかった(『平姓藤原氏御系図附言』)[15]。ただし、秀吉の甥である秀次が文禄3年(1594年)正月に秀吉の元に挨拶に向かった際には朝日も七曲殿らと共に大坂城にいたことが確認できる(『駒井日記』)ため、晩年には秀吉と和解していたとする指摘もある[16]
  • 夫の主君・織田信長の四男・秀勝を養子に迎えたのは、おねが信長に懇願して主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったものではないかとされている[17][18]。信長もおねの真意を察したからこそ、夫の浮気に悩む彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、消息にもかかわらず、あえて公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されている[17][18]。信長にそこまで気遣いをさせる彼女の人間性や魅力を感じさせる数少ない史料であり、おねに戦国武将夫人としての自信を回復させ、秀吉との夫婦関係を永続させることが目的であった[19]。大意は以下の通り。なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[20]

我が命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できぬ程である。

そのお返しとして予の方からも何ぞ送ろうかと思ったが、あなたの土産があまりに見事で何を返せば良いか思い付かなかった故、此度はやめて、あなたがいつかまた来た時にでも渡そうと思う。

あなたの美貌もいつぞやに会った時より、十の物が二十になるほど美しくなっていて驚いた。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとの事だが、言語同断、けしからぬ事である。

どこを探しても、あなたほどの女性を二度とあの禿ねずみ (秀吉)は見つける事はできぬであろう。

これより先は、身の持ち方を陽快に、奥方らしく堂々として、嫉妬などはせぬ様に。

ただし、女房の役目として言いたい事がある時は全て言うのではなく、ある程度に留めて言うとよろしかろう。

この手紙は、藤吉郎にも見せてやりなさい。

  • 豊臣政権においては大きな発言力と高い政治力を持っていた。自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちにはいろいろと便宜を図っており、ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで記している(『日本史』)。なお、フロイスは『日本史』の中で高台院を「王妃」もしくは「女王」と表現している[注釈 5]。秀吉が伴天連追放令を出した時、五畿内から出ようとしている司祭たちに人を遣わして食料品を贈り、関白が五畿内に帰ったら自分のできることなら何でも伴天連たちのために執り成すと約束をしている。また、おねの侍女の中にはマグダレナというキリシタンがいた[22]
  • 豪気な性格だったと見え、初めての聚楽第訪問を終え大坂城に滞在していた毛利輝元一行のもとに、聚楽第の北政所から夥しい量の酒肴が届けられている(「輝元公上洛日記」)。関白就任後の秀吉に対し、諸大名の面々の前で尾張訛りの口喧嘩をしたとの逸話がある。秀吉と2人きりのときは、お互いに尾張弁丸出しで会話したという。
  • 秀吉は関東に出兵した際に、おねとその女房に5通、淀殿に1通、鶴松に1通、大政所に1通、吉川広家に1通の手紙を出しており、この手紙の量から秀吉はおねを留守部隊の統括者と見ていたことがうかがえる[23]
  • 実子がいなかったせいもあってか一族の子女を可愛がり、特に兄・家定の子供らには溺愛といって良いほどの愛情を注いでいる。家定没後、その所領を木下利房木下勝俊(長嘯子)[注釈 6]に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続出来るように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている[注釈 7]。これは、高台院と家康が俗説で考えられているような親密な関係ではなかったことを証明する事件である。他にも家康は大坂の陣後に豊国廟を破却するなどの行為も行っている[25]
  • 先述の通り家康とは親密な関係とはいえなかったが、その息子である徳川秀忠とは親密な関係であった。「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が12歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった高台院と孝蔵主が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)髪の結いよう、装束の着方を秀忠に教えるなどしていた。そのため秀忠は恩義から高台院を手厚く保護しており、終生上洛するたびに高台院を訪ねていたといい、親しい間柄であったことがうかがえる[26]。また、家康が一度は拒否した木下利次との養子縁組を秀忠が家康の死後に許可している[27]。高台院が秀吉から与えられ家康に安堵された領地は、家康死後の元和3年(1622年)には1万6,923石余にまで増えている。ちなみに寛永6年(1629年)に譲位した後水尾上皇のために幕府が用意した御料地は3,000石(のちに加増されて1万石)であった。
  • 前田利家の正室の芳春院とは親密な関係であったという。また、山内一豊の正室・見性院とも長浜時代以降親しく交わったといい、見性院は晩年を高台院屋敷の近くの屋敷(現京都地裁付近)で送っている。
  • 慶長18年6月20日、甥の木下延俊が病んだ時には、薬を三種と酒・を贈りその回復を促している。延俊の病は暑さ負けであったので、補血強心作用があるとされた鴈を届けたのである。服薬と食養生を兼ねた薬餌療法といえる[28]

淀殿との関係

高台院は秀吉の正室であったが、子どもを儲けることがなかったため一時秀吉に辛く当たられていたことがあり、また秀吉の側室である淀殿とは対立関係にあったという説がある。ただし、近年の田端泰子[29]や跡部信[30]らの研究では、両者はむしろ協調・連携した関係にあったのではないかと指摘されている。秀吉の死後、高台院と淀殿の双方から積極的に連携関係が結ばれていき[30]、高台院は亡き夫の仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見人になり、後家の役割が分割されていた[29][31]

慶長13年3月3日、天然痘にかかった豊臣秀頼の治療を行った曲直瀬道三に容態について問い合わせをしている[32]。淀殿が生んだ秀頼の病気快復を心底から望んでいた真情が伝わってくる内容である[33]

関ヶ原の戦いでも淀殿との対立関係から徳川家康率いる東軍のために動いたとするのが通説であった。実際、甥の小早川秀秋が戦闘中に西軍を裏切り東軍に付いている。しかし、近年の研究では淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されている[30]。また、逆に石田三成らと親しく、関ヶ原の合戦時に西軍寄りの姿勢を取っていた可能性を指摘する白川亨らの研究もある。その説の論拠として白川が挙げるのが次の具体的事実である[34]

  • 北政所周辺に西軍関係者が多い
  • 西軍寄りと見られる行動を取っている
    • 三成が加藤清正ら七将に襲撃された際、家康に三成の保護を依頼している(『言経卿記』)。
    • 側近の孝蔵主大津城開城の交渉にあたっている
    • 甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
    • 関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(この時、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる)
  • 東軍諸将との関係が薄い
    • 側近に東軍関係者が全くいない
    • 『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録がない。

諱についての論議

については従前から「ねね」とされていた。

昭和期に入って日本史学者の桑田忠親が北政所の自筆消息(手紙)の自署が「ね」一文字であることを理由に彼女の名は本来は「」、通称では接頭辞「於(お)」をつけて「おね」であり、「ねね」は『太閤記』などによる誤記であるという説を唱えた。

桑田の説に対して女性名の研究者でもある歴史学者の角田文衞は以下のように反論した。

  • 当時は女性が自筆の消息に名の頭文字1字だけ署名する習慣があった。いわゆる細川ガラシャ夫人(明智たま)の消息の上書の署名には「」1字が書かれており、徳川秀忠の正室・崇源院(名はごう)が姉の常高院に宛てた消息でも「」と自署している。ゆえに自署が「ね」1字であることをもってそれが本名であると言い切ることは出来ない。
  • 鎌倉時代から江戸時代にかけて調べうる限りでの女性名を集めたが、「」なる一字名はただの1人も存在していない。一方、「ねね」は鎌倉時代あたりから現れ、非常に頻繁に用いられる女性名である(同時代にも栄姫黒田長政継室)・禰々諏訪頼重室)・珠姫前田利常室)・南部直政室など複数見られる)。以上より、高台院の名は「ね」ではなく「ねね」の方が自然であろうと思われる。

その後、足守木下家の文書を整理した人見彰彦は同家の系図に「ねい」と書かれていることを指摘し、また、彼女の母方の木下(旧杉原)家の系図には「於祢居」、『寛政譜』の浅野家の系図には「寧子」と書かれていることから、彼女の実名は「ねい」もしくはそれが変化した「ねへ(え)」であり、「寧」や「祢居」などの漢字を当てられ、「おね」や「寧子」はその美称や丁寧語であるとした[36]。これに対し、堀新は天正13年11月21日に作成した「掟」第三条に「お祢ゝ」と秀吉が自筆で記していることを理由に「ねね」説を補強し、「ねい」説についてはこれらの系図は全て二次史料であるとして否定的に論じた[37]

令和期に入って豊臣家の女性の動向を研究してきた日本史学者の福田千鶴は、高台院(北政所)の伝記の中で、これまでの議論の経緯を踏まえつつ、決定的な証拠はないものの、以下の理由で諱を「ねい」、秀吉ら周辺からは愛称として「ねね」と呼ばれていた、と推測した[38]

  • 「おね」や「ね」は古文書学的見地から立つと略称とみるのが妥当ではある。
  • 一方で、角田が指摘するガラシャ夫人の「たま」や崇源院の「ごう」も一次史料から検証出来たものでは無い(「た」や「五」の自署は彼女たちの諱が「たま」や「ごう」であることを立証する史料にはならない)。
  • 堀が指摘する秀吉自筆による「お祢ゝ」は、秀吉が彼女を「ねね」と呼んでいたことの証明にはなるが、文書そのものが秀吉の私的な覚書としての性格が強く、書き間違えもしくは彼女の愛称もしくは幼名が「ねね」であったことを意味するのではないか。
  • 系図類が二次史料であるとする堀の指摘自体は正しいが、彼女の"実家"と"母方"と"養家"が揃って「ねい」(もしくはその漢字表記)を公認していることは重大で、自著でも「ねい」もしくは「寧」を採用するのが妥当と考える。
  • ただし、「ねね」という表記も尾張出身者の聞書(『清須翁物語』・『太閤素性記』)に共通して出てきており、当時から広く浸透していた愛称であったと考えられる。

これに対して、黒田基樹は「ねね」説も「ねい」説も一定の根拠があることを認めながらも当時の史料に「ねね」が登場することは重大で、諱は「ねね(寧々)」とするのが妥当ではないかとする。その上で、愛称として呼ばれた「おねね」の略称が「おね」や「ね」であり、更に「ね」が実際の発音に合わせて「ねい」や「ねえ」などの形に変化したのではないか、と論じている[39]

NHK大河ドラマにおいては高台院が初めて登場した1965年の『太閤記』以降長年「ねね」が用いられてきたが、1996年の『秀吉』以降は2006年の『功名が辻』を除き[注釈 8]2014年の『軍師官兵衛』まで劇中では「おね」の呼称が使われた。2016年の『真田丸』では「ねい」(表記は「寧」)が、2023年の『どうする家康』では再び「ねね(表記は寧々)」が用いられた。

一族

系譜

  • 利次は高台院没後、羽柴氏を称することを江戸幕府から禁じられたため木下氏に復姓する。子孫は江戸時代に旗本として続いた。
  • 実家である杉原家は、秀吉により「木下」に改姓させられたが、小領主ながら幕末まで残った。
  • 木下家は、江戸時代を通じて足守藩日出藩の小大名として存続した。明治に入ってから共に子爵を叙爵され、足守木下家からは明治に入って歌人・木下利玄が出ている。
  • 豊臣姓羽柴家の嫡流は断絶したものの、養家である浅野家には傍流で女系ではあるが、豊臣姓羽柴家の傍系の血が入り、広島藩主家として江戸時代に繁栄した。なお、この傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。

その他

  • 近年、京都東山の高台寺周辺の人気観光スポットを徒歩で繋ぐ参道が整備され「ねねの道」の愛称で親しまれている。
  • 名古屋では信長・秀吉・家康を「三英傑」と呼び、毎年10月上旬に行われる「名古屋まつり」では彼らに扮した人物が登場するパレード(郷土英傑行列)があり、ここでの秀吉の相手役の女性は長らく「淀殿」とされてきた(信長には「濃姫」、家康には「千姫」)が、近年「おね」に変更された。

脚注

注釈

  1. ^ 生年は田端泰子の天文11年(1542年)説、桑田忠親・人見彰彦の天文17年(1548年)、今井林太郎の天文18年(1549年)と諸説あった。
  2. ^ 『寛永伝』の編纂時には存命中の高台院を知る人が多数健在であったと考えられる。また、福田千鶴も指摘するように、高台院の養子として育てられ、晩年の彼女と共に過ごしていた筈の木下利次が彼女の享年を知らなかったとは考えにくい。
  3. ^ 桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でおねと婚姻したのではないかとしている[8]
  4. ^ 黒田基樹はあくまでも仮説であると断った上で、秀勝の諱と戒名が当時からのものであったとすれば石松丸秀勝は亡くなったときには既に成人していた可能性があり、もしも彼が(当時の一般的な元服年齢とされる)15歳以上で亡くなったとした場合、ねねとの婚姻時には既に誕生していた可能性があると述べている[9]
  5. ^ 松田毅一・川崎桃太らは違和感をやわらげるため、「女王」を「羽柴夫人」・「関白夫人」と翻訳している[21]
  6. ^ 利房は関ヶ原合戦で西軍に属したため、勝俊は伏見城守護の任にありながら開戦直後に退去して家康の怒りを買ったため、いずれも改易され浪人中。
  7. ^ 当代記』には、家康はこの時、怒りのあまり「近年、政所老気違」と言ったと記されており、『慶長年録』では「政所老耄か気違」と言ったと記されている。また、秀忠と家康の間を仲介していた本多正信による策謀とする説もある[24]。なお、この所領は仲介をした長政の息子浅野長晟に与えられた。
  8. ^ 当初は「おね」が使われる予定だったが、原作(司馬遼太郎著)に忠実にするという理由で再び「ねね(実際は漢字表記の寧々)」に戻された。

出典

  1. ^ 堀新 & 井上泰至編 2017.
  2. ^ 福田千鶴 2024.
  3. ^ 村川浩平 2000, p. 43.
  4. ^ 福田千鶴 2024, pp. 8–12.
  5. ^ 黒田基樹 2025, pp. 114.
  6. ^ 『森家先代実録』 
  7. ^ 田端泰子 2007, p. 9.
  8. ^ 桑田忠親 1993.
  9. ^ 黒田基樹「総論 羽柴秀吉一門の研究」『羽柴秀吉一門』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 13〉、2024年11月、21-24頁。ISBN 978-4-86403-546-0 
  10. ^ 田端泰子 2007, p. 60.
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  13. ^ 宮本義己 2000.
  14. ^ 寛政重修諸家譜』第十八、続群書類従完成会, p.138
  15. ^ 田端泰子 2007, pp. 7–8.
  16. ^ 福田千鶴 2024, pp. 14–15.
  17. ^ a b 宮本義己 1999.
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  27. ^ 福田千鶴 2024, p. 254.
  28. ^ 宮本義己 2002b, p. 54.
  29. ^ a b 田端泰子 1996.
  30. ^ a b c 跡部信 2006.
  31. ^ 田端泰子 2007, p. 188.
  32. ^ 渡辺武 1987.
  33. ^ 小和田哲男 2010, pp. 117–118.
  34. ^ 白川亨 1997.
  35. ^ 幸田成友 1934, pp. 177–185.
  36. ^ 人見彰彦『北政所(高台院)と木下家の人々」山陽新聞社、1983年
  37. ^ 堀新「北政所の実名」堀新・井上泰至 編『秀吉の虚像と実像』笠間書院、2016年
  38. ^ 福田千鶴 2024, pp. 2–7.
  39. ^ 黒田基樹 2025, pp. 114–116.

参考文献

  • 跡部信「高台院と豊臣家」『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年。 
  • 内田九州男 著「北政所・高台院の所領について」、山陽新聞社編 編『ねねと木下家文書』山陽新聞社、1982年。 
  • 小和田哲男『北政所と淀殿:豊臣家を守ろうとした妻たち』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2009年6月。 ISBN 9784642056748 
  • 小和田哲男『戦国三姉妹物語:茶々・初・江の数奇な生涯』角川学芸出版、2010年。 
  • 河内将芳『大政所と北政所』戎光祥出版、2022年。 ISBN 9784864034203
  • 桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」『史学雑誌』52巻3・4号、1941年。 
  • 桑田忠親『女性の名書簡』東京堂出版、1993年。 
  • 幸田成友小西行長とその一族」『和蘭雑話』第一書房、1934年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1224377/98 
  • 白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年12月。 
  • 白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年。 
  • 田端泰子「北政所寧子論」『日本中世女性史論』塙書房、1994年。 ISBN 4-8273-1177-3 
  • 田端泰子『女人政治の中世』講談社、1996年。 ISBN 978-4061492943 
  • 田端泰子「豊臣政権の人質・人質政策と北政所」『女性歴史文化研究所紀要』15号、2006年。 
  • 田端泰子『北政所おね:大坂の事は、ことの葉もなし』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年。 ISBN 978-4623049547 
  • 津田三郎『北政所:秀吉歿後の波瀾の半生』中央公論社〈中公新書〉、1994年7月。 ISBN 4-121011-97-X 
  • 福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2006年。 ISBN 4-623-04810-1 
  • 福田千鶴『高台院』吉川弘文館人物叢書〉、2024年2月2日。 ISBN 978-4-642-05316-7 
  • 藤田恒春「豊臣・徳川に仕えた一女性:北政所侍女孝蔵主について」『江戸おんな考』12号、2001年。 
  • 堀新、井上泰至編『秀吉の虚像と実像』笠間書院、2017年6月。 ISBN 978-4305708144 
  • 宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、1997年。 
  • 宮本義己「北政所の基礎知識」『歴史研究』456号、1999年。 
  • 宮本義己「徳川家康の人情と決断:三成"隠匿"の顚末とその意義」『大日光』70号、2000年。 
  • 宮本義己「戦国時代の夫婦とは」『歴史研究』488号、2002年。 
  • 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法:生涯現役をつらぬく』中央労働災害防止協会、2002年。 ISBN 978-4623049547 
  • 村川浩平「高台寺文書」『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年。 
  • ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈4〉 豊臣秀吉編Ⅰ』松田毅一川崎桃太訳、中公文庫、2000年。 
  • 渡辺武「秀頼と北政所:新史料『高台院自筆消息』の語るもの」『高野春秋』1987年9月号、1987年。 
  • 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年5月7日。 ISBN 9784047037397 

関連作品

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