誹謗の渦中に得た二度目の栄誉
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「マリ・キュリー」の記事における「誹謗の渦中に得た二度目の栄誉」の解説
研究に復帰したマリが最初に取り組んだのは、長年ピエールを支援したケルヴィン卿を論破することだった。あえて『ロンドンタイムズ』を選んで発表したケルヴィン卿の理論とは、ラジウムが元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果で反論しようと、夫妻の同僚らとともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラム の分離に取り組み、1910年に成し遂げて 卿の誤りを立証した。同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった。息子が連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見もなく受け入れ、さまざまな困難に遭ったときには支え、何より娘たちの良き祖父であった 彼の死に家族は悲しみに沈んだ。 1907年からのアンドリュー・カーネギーの資金援助もあり、研究所は10人ほどの研究員を抱えるまでになった。この年にはそれまでの研究をまとめた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行った。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」(記号:Ci)と名づけられた。 だが同年、周囲から推されて科学アカデミー会員の候補になったことがマリを煩わしい事態に巻き込むこととなる。空席を巡って対立候補となったエドアール・ブランリーとの間で、支持者による2つの陣営が出来上がってしまった。自由主義者のマリと敬虔なカトリックのブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性対男性。特にかつて1902年にピエールに競り勝って会員となった人物が女性の会員に猛反対した。さらには、カトリックの投票権者達に対してマリがユダヤ人だというデマまで流れた。エクセルシオール紙(fr)などは一面でマリを攻撃し、右翼系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという記事まで載った。 1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われたが、詰め掛けた記者たちや野次馬で会場は混乱の中にあった。夕方に判明した結果は僅差 でブランリーが選ばれ、研究所の面々はマリ本人を除いて落胆に暮れた。この時には、マリは請われて既にいくつかの外国のアカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員を選出するのは1979年であった。淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習を嫌っていたことが書かれており、2度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーと完全に袂を分かつことになった。なお、フランスの公的機関がマリに正式な栄誉を与えたのは1922年のことである(医療への貢献という理由でパリ医学アカデミーが前例を覆して彼女を会員に選出した)。 マリは研究に戻り、ヘイケ・カメルリング・オネスと協同で低温環境下でのラジウム放射線研究の構想を練った。ところが有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、11月4日付け記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。相手は5歳年下、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた。マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた。1911年10月末にブルッセルで開かれたソルベー会議には2人揃って出席し、マリは論文を発表した若きアルベルト・アインシュタインへチューリッヒ大学教職への推薦状を書いたりしている。その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した。その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、あらぬことを連日のように書き立てた。ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった。 ソーの自宅に帰ると、そこは既に群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。マリは子供たちを連れて脱出し、親しいエミール・ボレル夫妻が一家を匿った。政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、夫妻は一切ひるまなかった。ボレル夫人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリを損なうなら2度と顔を合わせないと父を逆に脅した。騒動は色々なところへ飛び火していた。 この騒動の渦中の11月7日、スウェーデンからノーベル化学賞授与の電報が入った。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」として新元素発見を取り上げて評価していた。マリは、初めて2度のノーベル賞受賞者となり、また異なる分野(物理学賞・化学賞)で授与された最初の人物ともなった。だが、渦中のスキャンダルを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声があがった。しかしマリは受賞する意思を毅然と示し、今度はストックホルムへ向かった。記念講演において、マリはピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別した上で、この成果の発端はふたりの共同研究にあったと述べた。 受賞から19日後の12月29日、マリは鬱病と腎炎で入院した。一時退院したが1912年3月には再度入院して腎臓の手術を受けた。その後、郊外に家を借りて療養したが、6月にはサナトリウムに入った。8月には少々の回復を見せ、女性物理学者ハータ・エアトンの招待に応じてイギリスへ渡った。2か月間過ごした後の10月にパリへ戻ったが、ソーの家は諦めてて新たにアパートを借りた。この間、マリはスクウォドフスカの姓を使っていた。マスコミは相変わらず何かしらのネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国がマリを評価するとフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど都合のよい記事ばかり載せ たため、マリはジャーナリズムを嫌悪した。 彼女を支え続けたのは多くの知人と友人、そして家族だった。1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチを団長とするポーランドの教授連代表団がマリを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらいたいと打診した。1905年のロシア第一革命以後、帝政ロシアのくびきが緩み、何よりマリの名声が世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出をマリは熟考し、本来自分が目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所を彼に相応しいものにすることを思い出した。こうしてポーランドへの帰国は断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した。1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行った。 夏頃には健康も回復し、一家でスイスを旅行するなどして好きな田舎で休息を取ると、マリはまた積極的に動き始めた。1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所の新しい建物(キュリー棟)が完成した。だが実験に取り掛ることはできなかった。7月28日、第一次世界大戦が勃発したためである。
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