誹謗の渦中に得た二度目の栄誉とは? わかりやすく解説

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誹謗の渦中に得た二度目の栄誉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)

マリ・キュリー」の記事における「誹謗の渦中に得た二度目の栄誉」の解説

研究復帰したマリ最初に取り組んだのは、長年ピエール支援したケルヴィン卿論破することだった。あえて『ロンドンタイムズ』を選んで発表したケルヴィン卿理論とは、ラジウム元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果反論しようと、夫妻同僚とともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラム分離取り組み1910年成し遂げて 卿の誤り立証した同年2月25日義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった息子連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見もなく受け入れさまざまな困難に遭ったときには支え何より娘たち良き祖父であった 彼の死に家族悲しみ沈んだ1907年からのアンドリュー・カーネギー資金援助もあり、研究所10人ほどの研究員抱えるまでになったこの年にはそれまで研究をまとめた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能国際基準単位定義する仕事行った1911年決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」(記号Ci)と名づけられた。 だが同年周囲から推され科学アカデミー会員候補になったことがマリ煩わしい事態巻き込むこととなる。空席巡って対立候補となったエドアール・ブランリーとの間で、支持者による2つ陣営出来上がってしまった。自由主義者マリ敬虔なカトリックのブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性男性。特にかつて1902年ピエール競り勝って会員となった人物女性会員猛反対した。さらにはカトリック投票権者達に対してマリユダヤ人だというデマまで流れたエクセルシオール紙(fr)などは一面マリ攻撃し右翼新聞には彼女の栄誉ピエール業績に乗っかっただけという記事まで載った1911年1月23日アカデミー会員選出投票が行われたが、詰め掛け記者たちや野次馬会場混乱中にあった。夕方判明した結果僅差 でブランリーが選ばれ研究所面々マリ本人除いて落胆暮れた。この時にはマリ請われて既にいくつかの外国アカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員選出するのは1979年であった淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習嫌っていたことが書かれており、2度候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載拒否し科学アカデミーと完全に袂を分かつことになった。なお、フランス公的機関マリ正式な栄誉与えたのは1922年のことである(医療への貢献という理由パリ医学アカデミー前例覆して彼女を会員選出した)。 マリ研究戻りヘイケ・カメルリング・オネス協同低温環境下でのラジウム放射線研究構想練った。ところが有名人スキャンダル売り購買欲掻き立てていた当時新聞が、11月4日付け記事マリ不倫記事大々的掲載した相手5歳年下ピエール教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間冷めて別居し裁判沙汰にまでなっていた。マリ私生活問題で悩むランジュバン相談聞くうちに親密になっていた。1911年10月末にブルッセル開かれたソルベー会議には2人揃って出席しマリ論文発表した若きアルベルト・アインシュタインチューリッヒ大学教職への推薦状書いたりしている。その最中報道は、ランジュバン宛てたマリの手紙を暴露し他人の家庭を壊す不道徳な女とマリ糾弾したその後報道続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫知って自殺したのだと、あらぬこと連日のように書き立てたついには記者ブリュッセルまで押し寄せマリ会議閉幕待たずに去らなければならなくなったソー自宅帰ると、そこは既に群集取り囲まれ投石する輩までいた。マリ子供たち連れて脱出し親しエミール・ボレル夫妻一家を匿った。政府公共教育大臣ボレルマリ庇うなら大学罷免する迫ったが、夫妻一切ひるまなかった。ボレル夫人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリ損なうなら2度顔を合わせないと父を逆に脅した騒動色々なところへ飛び火していた。 この騒動渦中11月7日スウェーデンからノーベル化学賞授与電報入った理由は「ラジウムポロニウム発見と、ラジウム性質およびその化合物研究において、化学特筆すべきたぐいまれ功績をあげたこと」として新元素発見取り上げて評価していた。マリは、初め2度ノーベル賞受賞者となり、また異な分野物理学賞化学賞)で授与され最初の人ともなった。だが、渦中スキャンダル理由に、スウェーデン側から授与見合わせてはどうかという声があがった。しかしマリ受賞する意思毅然と示し今度ストックホルム向かった記念講演において、マリピエール業績自分仕事明瞭に区別した上で、この成果発端はふたりの共同研究にあった述べた受賞から19日後の12月29日マリ鬱病腎炎入院した一時退院した1912年3月には再度入院して腎臓の手術を受けたその後郊外に家を借りて療養したが、6月にはサナトリウム入った8月には少々回復見せ女性物理学者ハータ・エアトン招待に応じてイギリスへ渡った。2か月過ごした後の10月パリへ戻ったが、ソーの家は諦めて新たにアパート借りたこの間マリはスクウォドフスカの姓を使っていた。マスコミは相変わらず何かしらネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国マリ評価するフランス先進性象徴祭り上げるなど都合のよい記事ばかり載せ たため、マリジャーナリズム嫌悪した。 彼女を支え続けたのは多く知人友人、そして家族だった。1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチ団長とするポーランド教授代表団マリ訪問しワルシャワ放射能研究所設立して女に所長務めてもらいたい打診した1905年ロシア第一革命以後帝政ロシアのくびきが緩み何よりマリ名声世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出マリ熟考し、本来自分目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所彼に相応しいものにすることを思い出した。こうしてポーランドへの帰国断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した1913年ワルシャワ研究所開所式に出席したマリは、初めポーランド語科学講演行った。 夏頃には健康も回復し一家スイス旅行するなどして好きな田舎休息を取ると、マリはまた積極的に動き始めた1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りラジウム研究所新しい建物キュリー棟)が完成した。だが実験取り掛ることはできなかった。7月28日第一次世界大戦勃発したためである。

※この「誹謗の渦中に得た二度目の栄誉」の解説は、「マリ・キュリー」の解説の一部です。
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