竣工後の取り扱いとは? わかりやすく解説

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竣工後の取り扱い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)

大和型戦艦」の記事における「竣工後の取り扱い」の解説

大和乗組員さえ正確な口径知らされかったばかりか、大和視察訪れた連合艦隊司令長官山本五十六でさえも説明断られているなど、正式な手続きなければ海軍トップでさえ詳細を知ることはできなかった。『戦艦大和建造秘録』にはレイテ沖海戦時期ですら、大和型戦艦指揮下に収めていた栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍調査団陳述している事が書かれている天一号作戦時の第二艦隊砲術参謀宮本雄も米軍調書NAV50号において同様の証言をしている。艦隊指揮関わる高級士官直接砲の操作に当たる訳ではないが、これらは指揮下の戦艦攻撃能力正確に知らされていなかった事例である。ただし大まかな情報となると別で、捕虜となった将兵中には45センチ砲」といった推測を米側に供述している者が居る。捕虜尋問トレイシー得られ情報は、全長900フィート(約274m)、三連45 - 48cm主砲三基、20cm連装砲台四基、40mm速射高射砲多数排水量5万トン速力25 - 35ノット巡航速度28ノット)である。また戦艦主砲に関わった者ならば46cm砲であることを推測することは容易であり、「長門」の41cm砲伝令員だった近江(連合艦隊司令長官付従兵長)は「大和」の砲塔内部見学して46cm砲の巨大さ圧倒されている。また千早正隆のように、機密を知る艤装員や艦長転勤して他の部隊に行くという事例も多かった艦名については、艤装員付として軽巡洋艦鹿島より転属した三等機関兵曹の履歴表に「大和」と捺印されていた。また無線通信では「大和、武蔵」の艦名公然と呼称されており、昭和天皇が「武蔵」に乗艦した際にも『御召武蔵』と日本海軍全体通知されている。水雷戦隊はおろか駆逐艦戦闘詳報にも「大和、武蔵」の艦名記載されている。 淵田美津雄(真珠湾攻撃赤城飛行隊長)は海軍大学校在籍中1936年、「丸四計画」を知って大西瀧治郎航空本部教育部と共に反対論唱えている。同校学生が「大和、武蔵という新型戦艦配属された」という噂を聞き教官確かめたというエピソードもある[要出典]。海軍兵学校卒業後、航空搭乗員訓練受けていた 豊田穣は、練習機搭乗中教官機上から「大和」を紹介してくれたと述べている。 また横須賀海軍砲術学校教育され第一期特年兵が戦艦武蔵」に配属になる際、「武蔵乗組み命ず」と面前紹介され、特年兵同期生達がどよめいたというエピソード残っている。砲術学校志望者が、第一から第三希望まで全て大和」で統一した例もある。この横須賀海軍砲術学校では、1943年源田実来て高等科生らに航空講義をした際、「万里の長城「ピラミッド」大和、武蔵」は世界笑い物だと発言し教頭だった黛治夫源田詰め寄る一幕もあった。源田大和型スクラップにして空母にすることを主張したが、大和型から大型空母改造され信濃は、横須賀から呉への航海途中に米潜水艦雷撃をうけ、完成から20日沈んだ。 呉では、公用使として上陸した兵(坪井)がポケットに手をいれて本屋にいたところ、巡邏隊に連行されてしまった。日本海軍においてズボンポケットに手をいれることは厳禁だった。詰所で「大和所属」と名乗ったところ、巡邏隊は「一号艦か」と突然態度変え簡単な注意だけで解放された。1944年12月東南海地震では、大地震遭遇して帰艦時刻に遅れそうになった数名海軍無線局で「大和乗組員であることを名乗り、艦に連絡取っている。同月有賀幸作大佐大和艦長任命された時、浜名海兵団にいた長男対し本来「ウ五五六」(大和秘匿番号)とすべきところ「大和艦長 有賀幸作」と艦名書いた手紙送っている。ただし、大和艦名書かれたのは最初一通けだった下級将校艦名知っていたと思われ大和配属決定した少尉が妻に「大和配属になった」と打ち明けている。 またトラック泊地では内火艇迎えに来る際、内火艇水兵大声で「武蔵乗組みの者はいないか!」と怒鳴っていたという。ここでは「大和農園」や「武蔵農園」があり、下士官兵カボチャキュウリといった野菜作っていた。 社会一般では、1942年昭和17年12月8日には艦形艦名要目等一切明らかにされなかったものの「新鋭艦」が既に数隻存在するという海軍関係者の発言報道された。これは当時雑誌・書籍類からも確認できるが、実際に紙面飾ったのは利根型重巡洋艦筑摩」である。また、大戦末期になると大部分噂話程度のものであったが「長門陸奥より大きな軍艦」が存在するという情報少なからず広まっていたようである。山田風太郎記した1943年昭和18年2月3日日記によれば山田海軍少尉友人との会話で『日本新戦艦中には大和」「武蔵」という八万トン級の凄いものがあること』を教えられている。大和沈没時には、呉でも「大和沈没」の噂が流れた対す米軍大和型戦艦の名称を把握しており、大和沈没時、捕虜制作させた『米軍猛攻受けた大和」は航空機1機の援護もなく沈没し姉妹艦武蔵」もフィリピン海戦で沈没した』という内容宣伝ビラ投下している。

※この「竣工後の取り扱い」の解説は、「大和型戦艦」の解説の一部です。
「竣工後の取り扱い」を含む「大和型戦艦」の記事については、「大和型戦艦」の概要を参照ください。

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