竣工後の取り扱い
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大和乗組員さえ正確な口径は知らされなかったばかりか、大和を視察に訪れた連合艦隊司令長官の山本五十六でさえも説明を断られているなど、正式な手続きがなければ海軍のトップでさえ詳細を知ることはできなかった。『戦艦大和建造秘録』にはレイテ沖海戦の時期ですら、大和型戦艦を指揮下に収めていた栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述している事が書かれている。天一号作戦時の第二艦隊砲術参謀・宮本鷹雄も米軍調書NAV第50号において同様の証言をしている。艦隊の指揮に関わる高級士官は直接砲の操作に当たる訳ではないが、これらは指揮下の戦艦の攻撃能力を正確に知らされていなかった事例である。ただし大まかな情報となると別で、捕虜となった将兵の中には「45センチ砲」といった推測を米側に供述している者が居る。捕虜尋問所トレイシーで得られた情報は、全長900フィート(約274m)、三連装45 - 48cm主砲三基、20cm連装砲台四基、40mm速射高射砲多数、排水量約5万トン、速力25 - 35ノット(巡航速度28ノット)である。また戦艦の主砲に関わった者ならば46cm砲であることを推測することは容易であり、「長門」の41cm砲伝令員だった近江(連合艦隊司令長官付従兵長)は「大和」の砲塔内部を見学して46cm砲の巨大さに圧倒されている。また千早正隆のように、機密を知る艤装員や艦長が転勤して他の部隊に行くという事例も多かった。 艦名については、艤装員付として軽巡洋艦鹿島より転属した三等機関兵曹の履歴表に「大和」と捺印されていた。また無線通信では「大和、武蔵」の艦名が公然と呼称されており、昭和天皇が「武蔵」に乗艦した際にも『御召艦武蔵』と日本海軍全体に通知されている。水雷戦隊はおろか駆逐艦の戦闘詳報にも「大和、武蔵」の艦名が記載されている。 淵田美津雄(真珠湾攻撃時赤城飛行隊長)は海軍大学校在籍中の1936年、「丸四計画」を知って大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱えている。同校の学生が「大和、武蔵という新型戦艦が配属された」という噂を聞き、教官に確かめたというエピソードもある[要出典]。海軍兵学校を卒業後、航空搭乗員の訓練を受けていた 豊田穣は、練習機に搭乗中、教官が機上から「大和」を紹介してくれたと述べている。 また横須賀海軍砲術学校で教育された第一期特年兵が戦艦「武蔵」に配属になる際、「武蔵乗組みを命ず」と面前で紹介され、特年兵同期生達がどよめいたというエピソードが残っている。砲術学校志望者が、第一から第三希望まで全て「大和」で統一した例もある。この横須賀海軍砲術学校では、1943年に源田実が来て高等科生らに航空講義をした際、「万里の長城」「ピラミッド」「大和、武蔵」は世界の笑い物だと発言し、教頭だった黛治夫が源田に詰め寄る一幕もあった。源田は大和型をスクラップにして空母にすることを主張したが、大和型から大型空母に改造された信濃は、横須賀から呉への航海途中に米潜水艦の雷撃をうけ、完成から20日で沈んだ。 呉では、公用使として上陸した兵(坪井)がポケットに手をいれて本屋にいたところ、巡邏隊に連行されてしまった。日本海軍においてズボンのポケットに手をいれることは厳禁だった。詰所で「大和所属」と名乗ったところ、巡邏隊は「一号艦か」と突然態度を変え、簡単な注意だけで解放された。1944年12月の東南海地震では、大地震に遭遇して帰艦時刻に遅れそうになった数名が海軍無線局で「大和」乗組員であることを名乗り、艦に連絡を取っている。同月、有賀幸作大佐が大和艦長に任命された時、浜名海兵団にいた長男に対し本来「ウ五五六」(大和の秘匿番号)とすべきところ「大和艦長 有賀幸作」と艦名を書いた手紙を送っている。ただし、大和艦名が書かれたのは最初の一通だけだった。下級将校も艦名を知っていたと思われ、大和配属が決定した少尉が妻に「大和配属になった」と打ち明けている。 またトラック泊地では内火艇が迎えに来る際、内火艇の水兵が大声で「武蔵乗組みの者はいないか!」と怒鳴っていたという。ここでは「大和農園」や「武蔵農園」があり、下士官兵がカボチャやキュウリといった野菜を作っていた。 社会一般では、1942年(昭和17年)12月8日には艦形・艦名・要目等は一切明らかにされなかったものの「新鋭艦」が既に数隻存在するという海軍関係者の発言が報道された。これは当時の雑誌・書籍類からも確認できるが、実際に紙面を飾ったのは利根型重巡洋艦「筑摩」である。また、大戦末期になると大部分が噂話程度のものであったが「長門や陸奥より大きな軍艦」が存在するという情報が少なからず広まっていたようである。山田風太郎が記した1943年(昭和18年)2月3日の日記によれば、山田は海軍少尉の友人との会話で『日本の新戦艦中には「大和」「武蔵」という八万トン級の凄いものがあること』を教えられている。大和沈没時には、呉でも「大和沈没」の噂が流れた。 対する米軍は大和型戦艦の名称を把握しており、大和沈没時、捕虜に制作させた『米軍の猛攻を受けた「大和」は航空機1機の援護もなく沈没し、姉妹艦「武蔵」もフィリピン海戦で沈没した』という内容の宣伝ビラを投下している。
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