関係者の発言
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オートモ号に携わった関係者は、いくつかの発言を残している。 純国産化の意義について わたくしどもの前に自動車を手がけた人は、外国の自動車をまねて作ろうとした。だがそれではなかなかできるものではありません。外国の車は機械化の進んでいるところで量産しますから、日本ではそれをそのまままねすることは無理です。それで、わたくしどもは方々を省略したり。設計替えをして日本の機械や工具、技術に合うように工夫しました。それで純国産で作るために、相当の時間をかけて自動車のマスプロ用の治具、取付具などを自分で作り、ブローチやホブの使用も工夫したのです。それには相当の無駄もありましたし、時間もかかりました。いちばん困ったのは鋳物です。外注は駄目ですから自製をしました。また日本の工作機械では間に合わないので、機械の改造から新しい工作機械までこしらえました。わたくしはそのとき、親父の金を200万円ほど全部使いました。工作機械、鋳物設備、研究用の自動車など色々のものを合計しますと、その費用は2千台ぐらい作ったことになります。 — 豊川順彌、1957年・自動車工業振興会主催「第1回座談会 草創期の自動車工業」 1957年に自動車工業振興会主催で開かれた座談会に、豊川と蒔田鉄司が参加した。その際、司会者からの「失礼ですが(アレス号は)何かをコピーされたのですか」という問いかけを蒔田が否定し、豊川は純国産を志向したことの意義について上記のように述べた。豊川の発言として伝わっているものは少なく、この発言は後の書籍でもよく引用されている。部品から製作するほかなかった、という点は大量生産方式を既に確立していたアメリカ車に対抗できなかった原因にもつながっている。 「国産自動車」の定義については、白楊社の技術者である渡辺隆之介が『モーター』1926年3月号に寄稿した記事で下記の要件を挙げ、全て満たしていなければならないとしている。 日本人が企画、投資、経営する工場において製作されたものであること 日本の法律、国情に適合するよう日本人が設計したものであること 全て日本で産出された材料を用いて製作されたものであること 日本人が独自に設計製作した工作機械を用いて製作されたものであること 製作に参加する者は全て日本人であること 製作された自動車は世界のいかなる文明国でも歓迎使用される素質を有していること これは渡辺個人の考えというより、白楊社、豊川の考える理想だと解釈されており、第6項については、「世界に通用する自動車でなくては、国産車と名乗るのはおこがましい」という主張で、白楊社の技術者の気概を示したものであると理解することができる。一方で、現実的ではないことも明らかであり、同時代でも批判されており、軍人としての立場で国産化を奨励していた山川良三は同誌5月号で「予は決して其の見解を誤れるものとは認めないのみならず技術者としての立場から学者的に解釈された点は大に敬服する」としつつ「是を現実的に考えると余りに狭義に失する感がある」として、ひとつひとつ批判を加えている。 空冷エンジンの採用について わたくしが空冷で成功したのは、学問はないが若い時から機械の実際に取り組んできたからです。ジャイロ・コンパスを手がけたり、タービンをやって熱伝導の学問を多少やったために、空冷で十分いけると見当をつけたのです。いまフォルクスワーゲンは空冷です。ですから、当時の考え方としては日本の方が進んでいたと思います。 — 豊川順彌、1957年・自動車工業振興会主催「第1回座談会 草創期の自動車工業」 タイプ1(ビートル)をはじめ、1950年代当時のフォルクスワーゲンではOHVの空冷エンジン搭載車が主流だった。自動車に搭載されるエンジンで水冷が主流となるのは1960年代以降であり、それまでは空冷OHVエンジンは最適解のひとつと言えるものだった。豊川が上記で半ば自画自賛しているように、理論的な判断による先見の明があったこと、それを実現に移す行動力があったことは、豊川の真骨頂であると評価されている。 豊川はここで述べていることとほぼ同じことを、1958年の『自動車ガイドブック』中の記事でも改めて記しており、「当時の考え方としては日本の方が進んでいたと思います」の真意として、「初期の日本の自動車工業は、一口にいって学者の理論から出発したものでなく、実際の技術家によって作り上げられた」ものであり、「学問と実際とが協力するというのではなく、一体化してしまうことが大切だと思う」ゆえである、ということを自身の経験と実績を踏まえて述べている。学問については、「工学よりはむしろ理学の方を土台とした学問が根本だと思う。そして工学が中間に存在して、それからプラクティス。この位のガッチリした組立てでないと、世界の中に立って太刀打ちはできないだろう」としている。オートモ号を含む自動車製作については、「苦労して自動車を作りだしたが、その性能については、今も自信を持っている。」と結んでいる。 後の自動車製造との比較 トヨタは昭和8年頃から、秘密に自動車の研究を始めていました。(中略)ボデーはその当時、図面を引いて作っているものはなかったと思います。それで、図面によって本当のセクションを出して作ってみたのですが、実際に作ると、図面にないところが出てきたり、寸法の合わないものができたりして、非常に苦労をしました。(中略)そのほかのことについては、オートモ号を造ったときのような苦心はなかったように思います。オートモ号のときは、部品の一つ一つがないので、それはたいへんな苦労をしたものでした。 — 池永羆、1958年・自動車工業振興会主催「第3回座談会 自動車工業史よもやま話」 池永が移った豊田自動織機製作所自動車部は、1936年(昭和11年)にAA型を発売。日本内燃機を創業しくろがね四起などを自ら手掛けた蒔田鉄司も同様に、オートモ号での苦労があったので、「あの時に全く新しいものに他人を煩わせないで取り組んだために、どんなものに出会っても驚かないようになりました。」と述べている。
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