関係者の発言とは? わかりやすく解説

関係者の発言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)

オートモ号」の記事における「関係者の発言」の解説

オートモ号携わった関係者は、いくつかの発言残している。 純国産化の意義について わたくしども前に自動車を手がけた人は、外国自動車をまねて作ろうとした。だがそれではなかなかできるものではありません。外国の車は機械化進んでいるところで量産しますから日本ではそれをそのまままねすることは無理です。それで、わたくしども方々省略したり。設計替えをして日本機械工具技術に合うように工夫しました。それで純国産作るために、相当の時間をかけて自動車マスプロ用の治具取付具などを自分作りブローチホブ使用工夫したのです。それには相当の無駄もありましたし、時間かかりました。いちばん困ったのは鋳物です。外注駄目ですから自製しました。また日本工作機械では間に合わないので、機械改造から新し工作機械までこしらえました。わたくしはそのとき親父の金を200万円ほど全部使いました工作機械鋳物設備研究用自動車など色々のものを合計しますと、その費用は2千台ぐらい作ったことになります。 — 豊川順彌1957年自動車工業振興会主催第1回座談会 草創期自動車工業1957年自動車工業振興会主催開かれた座談会に、豊川蒔田司が参加したその際司会者からの「失礼ですが(アレス号は)何かをコピーされたのですか」という問いかけ蒔田否定し豊川純国産志向したことの意義について上記のように述べた豊川発言として伝わっているものは少なく、この発言は後の書籍でもよく引用されている。部品から製作するほかなかった、という点は大量生産方式を既に確立していたアメリカ車対抗できなかった原因にもつながっている。 「国産自動車」の定義については、白楊社技術者である渡辺隆之介が『モーター1926年3月号に寄稿した記事下記要件挙げ全て満たしてなければならないとしている。 日本人企画投資経営する工場において製作されたものであること 日本の法律国情適合するよう日本人設計したのであること 全て日本産出され材料用いて製作されたものであること 日本人独自に設計製作した工作機械用いて製作されたものであること 製作に参加する者は全て日本人であること 製作され自動車世界いかなる文明国でも歓迎使用される素質有していること これは渡辺個人考えというより、白楊社豊川考え理想だと解釈されており、第6項については、「世界通用する自動車なくては国産車名乗るのはおこがましい」という主張で、白楊社技術者気概示したのである理解することができる。一方で現実的ではないことも明らかであり、同時代でも批判されており、軍人としての立場国産化奨励していた山川良三は同誌5月号で「予は決し其の見解誤れるものとは認めないのみならず技術者として立場から学者的に解釈された点は大に敬服する」としつつ「是を現実的に考えると余りに狭義失する感がある」として、ひとつひとつ批判加えている。 空冷エンジン採用について わたくしが空冷成功したのは、学問はないが若い時から機械実際に取り組んできたからです。ジャイロ・コンパスを手がけたり、タービンをやって熱伝導学問多少やったために、空冷で十分いけると見当をつけたのです。いまフォルクスワーゲン空冷です。ですから、当時考え方としては日本の方が進んでいたと思います。 — 豊川順彌1957年自動車工業振興会主催第1回座談会 草創期自動車工業タイプ1ビートル)をはじめ、1950年代当時フォルクスワーゲンではOHV空冷エンジン搭載車主流だった。自動車搭載されエンジン水冷主流となるのは1960年代以降であり、それまで空冷OHVエンジン最適解のひとつと言えるのだった豊川上記半ば自画自賛しているように、理論的な判断による先見の明があったこと、それを実現に移す行動力があったことは、豊川真骨頂であると評価されている。 豊川はここで述べていることとほぼ同じことを、1958年の『自動車ガイドブック』中の記事でも改め記しており、「当時考え方としては日本の方が進んでいたと思います」の真意として、「初期日本自動車工業は、一口にいって学者理論から出発したものでなく、実際技術家によって作り上げられた」ものであり、「学問実際とが協力するというのではなく一体化してしまうことが大切だと思う」ゆえである、ということ自身経験実績踏まえて述べている。学問については、「工学よりはむしろ理学の方を土台とした学問根本だと思う。そして工学中間存在して、それからプラクティスこの位ガッチリした組立てでないと、世界中に立って太刀打ちできないだろう」としている。オートモ号を含む自動車製作については、「苦労して自動車作りだしたが、その性能については、今も自信持っている。」と結んでいる。 後の自動車製造との比較 トヨタ昭和8年頃から、秘密に自動車研究始めていました。(中略ボデーはその当時図面引いて作っているものはなかったと思います。それで、図面によって本当セクション出して作ってみたのですが、実際に作ると、図面にないところが出てきたり、寸法合わないものができたりして、非常に苦労しました。(中略そのほかのことについては、オートモ号造ったときのような苦心はなかったように思いますオートモ号のときは、部品一つ一つがないので、それはたいへんな苦労したものでした。 — 池永羆、1958年自動車工業振興会主催第3回座談会 自動車工業よもやま話池永移った豊田自動織機製作所自動車部は、1936年昭和11年)にAA型発売日本内燃機創業しくろがね四起などを自ら手掛けた蒔田司も同様にオートモ号での苦労があったので、「あの時に全く新しいものに他人煩わせないで取り組んだために、どんなものに出会って驚かないようになりました。」と述べている。

※この「関係者の発言」の解説は、「オートモ号」の解説の一部です。
「関係者の発言」を含む「オートモ号」の記事については、「オートモ号」の概要を参照ください。

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