関係者の相次ぐ変死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:23 UTC 版)
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。 1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人 が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。 1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。なお、この通報者は石川一雄の競輪仲間であった。「つまりは、彼は石川氏に容疑が向けられ始めた直後に警察に現れたため、おそらくは『捜査かく乱を狙う人物』と疑われたのである」と伊吹隼人は推測している。 1964年7月14日 - 被害者の姉 が農薬を飲んで自殺。 1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の長兄 が西武新宿線入曽駅~入間川駅間の踏切 で電車に轢かれて自殺。 1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。 1977年12月21日 - 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団「文珠社」のひとり片桐軍三 が暴行死とも見られる変死を遂げる。 さらに 1963年5月 - 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になったこと。 1964年3月18日 - 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死したこと。 1967年2月14日 - 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡したこと(享年83)。 1968年1月28日 - 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死したこと。 1970年12月25日 - ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見されたこと。 I養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年TA(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされること。 を加算し、変死者を12人と数える場合もある。ただし、青年TAについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。 但し、上記の一連の変死と狭山事件との関係は何ら証明されておらず、憶測の域を出ない。特に1963年5月11日の目撃通報者の自殺について亀井トムは「自殺を偽装した謀略殺人」との説を唱えた。、この説について半沢英一は「この亀井トムさんの説は、根拠とする事実の認定からして間違っていました。例えば、T・Nさんの自殺当日に取られたT・Nさんの奥さんの供述調書によれば、T・Nさんは奥さんの眼前で、たしかに包丁で心臓をついて自殺しており、他殺でなかったことは確実です」 と批判している。 亀井トムは被害者の日記における「夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい」(1963年4月27日)との記述を根拠として、財産分与をめぐる身内の犯行との説を唱え、部落解放同盟 や殿岡駿星もこの説を踏襲した。亀井によると、被害者の父は「農家の子は男も女も中卒で充分。もし高校に行きたければ自分で働いて行け」との持論の持ち主で、長兄も次兄も夜間高校出身だったが、被害者は兄弟姉妹の中でただ1人昼間の高校に行った、高校に行けば知的になる、そうすれば財産の6分の1はもらいますよと主張するようになる、これは長兄にしてみると非常に困ることだった、という。一方、伊吹隼人は財産分与をめぐる身内の犯行との説を「なぜ高校に入学したばかりの少女を真っ先に殺害しなければならないのかの説明がつかない」と批判している。 その後、上告審の段階から部落解放同盟は真犯人探しの推理を避けるようになった。狭山事件最新弁護団の依頼で石川冤罪論の立場から筆跡鑑定をおこなった半沢英一は、家族真犯人説を示唆する小説を書きつつ、「『狭山事件の真犯人』について私は、当時の警察の捜査が、思いこみによって非常に偏っていたことから、本質的な情報が収集されなかった可能性が高く、今となっては推定不可能だと考えています」と述べている。
※この「関係者の相次ぐ変死」の解説は、「狭山事件」の解説の一部です。
「関係者の相次ぐ変死」を含む「狭山事件」の記事については、「狭山事件」の概要を参照ください。
- 関係者の相次ぐ変死のページへのリンク