関係者の政界復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 22:17 UTC 版)
身柄拘束されたり起訴されたりした人物たちの中には、第二次世界大戦後に政界復帰して大臣、長官になった者や、それぞれの分野で相応に一定の社会的地位を築いたりした者もいた。代表的な人物に重光葵、岸信介、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣が挙げられる。 重光葵は東条内閣と小磯内閣で外務大臣を務め、A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年の刑を受けた。恩赦による出所後、衆議院議員に3回当選し、1954年に発足した鳩山内閣では副総理・外務大臣を務め、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組んだ。1956年の国際連合総会で日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認された際は、それに対する受諾演説を行い、加盟国代表団から拍手で迎えられた。その功績に対して公職引退後(死後)に勲一等旭日桐花大綬章を授与された。 岸信介は東條内閣で商工大臣を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されたが不起訴となった。連合国との講和条約の発効後、衆議院議員に9回当選、石橋内閣で外務大臣を務めた後に、石橋内閣の後継として1957年2月25日~1960年7月19日まで内閣総理大臣を務めた。国民皆保険・国民皆年金制度の制定や、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の改定を実施し、その功績に対して勲一等旭日桐花大綬章、大勲位菊花大綬章を授与された。 正力松太郎は読売新聞社長、東条内閣で参与、小磯内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。釈放後は日本をアメリカ合衆国の国益のための有力な同盟国・友好国にするために、読売新聞や日本テレビを宣伝報道事業者にした。正力松太郎は衆議院議員に5回選出され、第3次鳩山一郎内閣並びに岸内閣に於いて科学技術庁長官を歴任、更に国家公安委員長を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章と勲一等旭日桐花大綬章を授与された。CIAから資金提供を受けていたという(正力マイクロ波事件を参照)。 緒方竹虎は朝日新聞副社長・主筆、小磯内閣で国務大臣と情報局総裁を務め、鈴木貫太郎内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。緒方竹虎は衆議院議員に3回選出され、吉田内閣では、副首相と官房長官と国務大臣を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章を授与された。アメリカから総理候補として期待され、CIAにより緒方政権樹立のための政界工作が行われたが、緒方は総裁公選を前に急死した。後に、アメリカ合衆国政府が機密指定を解除して公開した中央情報局(CIA)の文書によって、岸・正力・緒方らは日本を親米化するためのアメリカ合衆国政府の協力者として位置づけられていたことが確認された。 賀屋興宣は東条内閣で大蔵大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。賀屋興宣は連合国との講和条約の発効と恩赦による刑の執行終了後、衆議院議員に5回選出され、池田内閣で法務大臣を務め、その功績に対して、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した。
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