秀次の乱行・悪行
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「御稽古」 秀次は習い事が好きで、『武徳編年集成』によると馬術は荒木元清から、射術は京都山科より片岡家次や吉田重氏ら6名の弓術家を招いて、その術を試していた。『続本朝通鑑』によると、秀次は剣術も好み、しばしば能伎者を召してそれを見ると、木刀を用いずに白刃を用いてこれを試してみた。それで傷を負ったり、悪くすると死ぬ者もいたので、相手をさせられる用人の中にはこれを苦にして逃げ去る者も少なくなかったという。 太田牛一の『天正記』(『太閤さま軍記のうち』と同じ記述)によると、鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという。 千人斬りに関しては、天正14年(1586年)に宇喜多次郎九郎が大坂で、文禄2年(1593年)に津田信任が山科で、それぞれ多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという。特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」と書いたこともこれらを指していたと考えられる。また辻斬りは後に徳川幕府が積極的な取り締まりに乗り出す必要があったほど、桃山時代から江戸時代初期にかけて流行しており、珍しいことではなかったものの、さすがに秀次ほどの人物が辻斬りを行えば、太田牛一以外にもそれを書き留める者がいたはずであり、史料記録が他に皆無であることから信憑性には当然疑念が生じる。小林千草は著書の中で、秀次が秀吉の数百本所持していた名刀の鑑定を任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬りを行っていたのではないか、という仮説を述べている。 「一胴七度」も参照 「院の諒闇中」 文禄2年(1593年)正月5日、正親町上皇が77歳で崩御されたが、関白という地位にもかかわらず、精進潔斎をせずに16日には鶴を食した。諒闇の喪に服す期間(=1年間)にもかかわらず、郊外に出て遊興した。6月7日には検校を召して平家物語を5、6段語らせた。7月18日には聚楽第で相撲を興行し、以後もしばしば興行した。『甫庵太閤記』によれば崩御7日も経たないのに鹿狩りをしたという。 この鹿狩りが殺生関白の落首の話に続くわけであるが、『言経卿記』によれば秀次が鹿狩りを行ったのは文禄3年(1594年)9月11日のことで喪は既に開けていたとされ、事実ではないという。また秀吉が文禄2年2月に鷹狩りをしたという記録があり、喪が明けないうちに狩りをしたのは秀次ではなく秀吉であったという説がある。 「比叡山の禁を犯す」 『甫庵太閤記』によれば、秀次は女房らを連れて女人禁制の比叡山に登山して一昼夜の遊宴を催した。日中は終日狩りをして、日没後も徹夜で夜興引きを行い、殺生が禁止されている聖地の山で鹿・猿・狸・狐・鳥類と大量の獲物を獲った。山の衆が桓武天皇以来この山は殺生禁断女人結界であると抗議したが、聞き入れなかった。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、秀次一行は根本中堂院内に馬をつないだり、鹿狩りを止めようとした僧侶たちがためていた塩酢の器に獲った鹿肉などをつっこむという悪さをしたといい、またこれらが(同記では何年のことか不明)6月8日の出来事であったとして、ちょうど月違いの7月8日に高野山に入ることになったのは「因果歴然」であるとする。 『甫庵太閤記』ではこれを文禄2年(1593年)の6月8日のこととしているが、『言経卿記』によればその日は秀次は聚楽第にいたことがわかっており、少なくとも日付は間違いであったことは確認されている。 「北野天神で座頭を殺害」 『甫庵太閤記』によれば、北野天神に行った際に1人の盲人(座頭)が杖をついているのに遭遇した秀次は、酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、その右腕を斬り落してしまった。その盲人は周囲に助けを求めて「ならず者め、人殺し」「勇気ある人は助けてくれ」などと叫んだが、(秀次の家老)熊谷大膳亮から盲人でも助かりたいと思うのかと尋ねられたので、殺生関白がこの辺りで辻斬りを行っていたという話を思い出して、自らが悪業の犠牲になるのかと嘆きつつも、「我が首を取って殺生関白の名を後代まで成さしめよ」と罵り、なぶり斬られたという。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、これが(同様に何年かは不明)6月15日の出来事であったとして月違いの7月15日に秀次は自害したことから、「天道恐ろしき事」として結んでいる。 会話は『甫庵太閤記』による“加筆”であり、演出じみているが、『太閤さま軍記のうち』ではどんな経緯だったのか詳しく書かれていない。 フロイス指摘「秀次の一大不徳」 『日本西教史』によれば、秀次には「人を殺すを嗜む野蛮の醜行」があり、罪人が処刑される際には自ら処刑人を務めるのが常であったという。関白の居館の一里ほど先の高地に刑場が設けられ、周囲に土塀を築き、中央に大きな案板を置いて罪人をこれに寝かせて切り刻んで楽しんだり、あるいは立たせて両段に裂下ろしたりし、最も快楽としたのは罪人の四肢を一つずつ切断することで、恰も鳥獣を裁くのと同じようなやり方で人間を解剖したという。また最も惨酷な振る舞いは妊婦の胎を剖い見たことであったという。 著者のジャン・クラッセは、実際に秀次と会ったことがあるという“ブロヱー(フロヱー)師”が話したものとしているが、同書をつぶさに目を通すと、この人物はワリニヤン大師に随伴してインドに一旦帰ったと書いてあることから、ルイス・フロイスのことを指していると思われ、フロイスがイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに送った1595年日本年報で書いた内容が上記と同じで原典であると確認できることから、ほぼ断定できる。フロイス(=フロヱー)は秀次切腹という日本での一大事を受けて1595年中に書簡を書いたとしているので、少なくとも当時すでに流布していた悪評なのであろう。ここでは割愛しているが、前述の人間を生きる標的として弓や鉄砲で撃ち殺した話が含まれていた。またこの話は、微妙な違いはあるものの、他の宣教師の書物にも繰り返し引用され、ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』やアルノルドゥス・モンタヌスの『モンタヌス日本誌』にも同様の内容が登場するが、これらは別々の証言というより、フロイスの書簡記事が転載されていったものである。ただしフロイスの原典を見れば、斬っていたのはあくまでも「死罪の者」であり、描写の内容は、特殊な刑場は「土壇場」を指し、処刑の様子は「生き胴」のような方法を指していると思われる。日本刀の試し切りに人体を用いていたことも併せて、これらの刑罰や習慣は江戸時代の日本にもあったもので、宣教師の目から見た当時の日本人の異習に過ぎず、フロイスの記述は史料的価値は高いものの、必ずしも秀次の残虐性を示す証拠や特異な奇習とまではいえないことには留意すべきである。
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