秀次の乱行悪行とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 秀次の乱行悪行の意味・解説 

秀次の乱行・悪行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)

豊臣秀次」の記事における「秀次の乱行・悪行」の解説

御稽古」 秀次は習い事が好きで、『武徳編年集成』によると馬術荒木元清から、射術京都山科より片岡家次や吉田重氏ら6名の弓術家招いて、その術を試していた。『続本朝通鑑』によると、秀次は剣術好み、しばしば能伎者を召してそれを見ると、木刀用いず白刃用いてこれを試してみた。それで傷を負ったり、悪くすると死ぬ者もいたので、相手させられる用人中にはこれを苦にして逃げ去る者も少なくなかったという。 太田牛一『天正記』(『太閤さま軍記のうち』と同じ記述)によると、鉄砲御稽古称して北野辺り出て行って見かけ農民鉄砲撃ち殺し、あるいは御弓御稽古称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢称して試し斬りをするから斬る相手探してこいと言い往来の人に因縁をつけさせて辻斬り行った数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し小姓若輩の者がこれを真似て辻斬り行った咎めなかったという。 千人斬りに関しては、天正14年1586年)に宇喜多次郎九郎大坂で、文禄2年1593年)に津田信任山科で、それぞれ多数人間殺害した容疑逮捕されており、前者自害後者改易させられたという。特に津田信任秀吉城持ち家臣であり、他者犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」と書いたこともこれらを指していたと考えられる。また辻斬りは後に徳川幕府積極的な取り締まり乗り出す必要があったほど、桃山時代から江戸時代初期にかけて流行しており、珍しいことではなかったものの、さすがに秀次ほどの人物辻斬り行えば太田牛一以外にもそれを書き留める者がいたはずであり、史料記録が他に皆無であることから信憑性には当然疑念生じる。小林千草著書の中で、秀次が秀吉数百本所持していた名刀鑑定任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬り行っていたのではないか、という仮説述べている。 「一胴七度」も参照 「院の諒闇中」 文禄2年1593年正月5日正親町上皇77歳崩御されたが、関白という地位にもかかわらず精進潔斎をせずに16日には食した諒闇喪に服す期間(=1年間)にもかかわらず郊外出て遊興した6月7日には検校召して平家物語5、6段語らせた。7月18日には聚楽第相撲興行し以後もしばしば興行した。『甫庵太閤記によれば崩御7日経たないのに鹿狩りをしたという。 この鹿狩り殺生関白落首の話に続くわけであるが、『言経卿記によれば秀次が鹿狩り行ったのは文禄3年1594年9月11日のことで喪は既に開けていたとされ、事実ではないという。また秀吉文禄2年2月鷹狩りをしたという記録があり、喪が明けないうちに狩りをしたのは秀次ではなく秀吉であったという説がある。 「比叡山禁を犯す」 『甫庵太閤記によれば、秀次は女房らを連れて女人禁制比叡山登山し一昼夜遊宴催した日中終日狩りをして、日没後も徹夜夜興引き行い殺生禁止されている聖地の山で鹿・猿鳥類大量獲物獲った。山の衆が桓武天皇以来この山は殺生禁断女人結界であると抗議したが、聞き入れなかった。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、秀次一行根本中堂院内に馬をつないだり、鹿狩り止めようとした僧侶たちがためていた塩酢の器に獲った鹿肉などをつっこむという悪さをしたといい、またこれらが(同記では何年のことか不明6月8日出来事であったとして、ちょうど月違い7月8日高野山に入ることになったのは「因果歴然」であるとする。 『甫庵太閤記』ではこれを文禄2年1593年)の6月8日こととしているが、『言経卿記によればその日は秀次は聚楽第にいたことがわかっており、少なくとも日付間違いであったことは確認されている。 「北野天神座頭殺害」 『甫庵太閤記によれば北野天神行った際に1人盲人座頭)がついているのに遭遇した秀次は、酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、その右腕を斬り落してしまった。その盲人周囲助け求めてならず者め、人殺し」「勇気ある人は助けてくれ」などと叫んだが、(秀次の家老熊谷大膳亮から盲人でも助かりたいと思うのかと尋ねられたので、殺生関白この辺りで辻斬り行っていたという話を思い出して、自らが悪業犠牲になるのかと嘆きつつも、「我が首を取って殺生関白の名を後代まで成さしめよ」と罵り、なぶり斬られたという。 また『太閤さま軍記のうち』によれば、これが(同様に何年かは不明6月15日出来事であったとして月違い7月15日に秀次は自害したことから、「天道恐ろしき事」として結んでいる。 会話は『甫庵太閤記』による“加筆”であり、演出じみているが、『太閤さま軍記のうち』ではどんな経緯だったのか詳しく書かれていないフロイス指摘「秀次の一大不徳」 『日本西教史によれば、秀次には「人を殺すを嗜む野蛮醜行」があり、罪人処刑される際には自ら処刑人務めるのが常であったという。関白居館一里ほど先の高地刑場設けられ周囲土塀築き中央大きな案板を置いて罪人をこれに寝かせて切り刻んで楽しんだり、あるいは立たせて両段に裂下ろしたりし、最も快楽としたのは罪人四肢一つずつ切断することで、恰も鳥獣を裁くのと同じようやり方人間解剖したという。また最も惨酷振る舞い妊婦の胎を剖い見たことであったという。 著者のジャン・クラッセは、実際に秀次と会ったことがあるという“ブロヱー(フロヱー)師”が話したものとしているが、同書つぶさに目を通すと、この人物はワリニヤン大師随伴してインドに一旦帰ったと書いてあることから、ルイス・フロイスのことを指していると思われフロイスイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに送った1595年日本年報書いた内容上記と同じで原典であると確認できることから、ほぼ断定できる。フロイス(=フロヱー)は秀次切腹という日本での一大事受けて1595年中に書簡書いたとしているので、少なくとも当時すでに流布していた悪評なのであろう。ここでは割愛しているが、前述人間生きる標的として弓や鉄砲撃ち殺した話が含まれていた。またこの話は、微妙な違いはあるものの、他の宣教師書物にも繰り返し引用され、ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』やアルノルドゥス・モンタヌスの『モンタヌス日本誌』にも同様の内容登場するが、これらは別々の証言というより、フロイス書簡記事転載されていったのである。ただしフロイス原典見れば、斬っていたのはあくまでも死罪の者」であり、描写内容は、特殊な刑場は「土壇場」を指し処刑様子は「生き胴のような方法指していると思われる日本刀試し切り人体用いていたことも併せて、これらの刑罰習慣江戸時代の日本にもあったもので、宣教師の目から見た当時日本人の異習に過ぎずフロイス記述史料的価値は高いものの、必ずしも秀次の残虐性を示す証拠特異な奇習とまではいえないことには留意すべきである

※この「秀次の乱行・悪行」の解説は、「豊臣秀次」の解説の一部です。
「秀次の乱行・悪行」を含む「豊臣秀次」の記事については、「豊臣秀次」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秀次の乱行悪行」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秀次の乱行悪行」の関連用語

秀次の乱行悪行のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秀次の乱行悪行のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの豊臣秀次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS