王権による改革派・ジャンセニスム・キエティスムの弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「王権による改革派・ジャンセニスム・キエティスムの弾圧」の解説
「フォンテーヌブローの勅令」、「ジャンセニスム」、および「キエティスム」も参照 ルイ14世の親政時代は長きにわたったが、フランス王権の絶対主義化は政治の領域を越えて良心の領域におよび、少数派となったプロテスタントおよび発生したジャンセニスムに弾圧を加えていった。プロテスタント勢力は、すでに王の庇護を失うことを恐れたリーダー格の貴族たちが多数離脱したため、弱体化の傾向が顕著であった。 親政開始直後の1661年、ルイ14世はフランス全土に官吏を派遣し、改革派の礼拝についての調査を行った。新教徒の公的礼拝を制限する王令が増え、さまざまな条例を発布して改革派を公職から改革派を締め出していった。1679年、「ドラゴナード」という制度が定められた。これは竜騎兵(ドラグーン)を改革派の家に宿泊させ、暴力的な威嚇によって改宗を強制するものであった。これに対し、1683年に改革派の多い南部を中心に散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年、ついにナントの勅令廃止が宣言され、プロテスタント信仰を禁じるフォンテーヌブローの勅令が出された。カトリックは国教となり、「1人の国王、1つの教会、1つの法」という標語の実現が強く求められ、改宗しない改革派の牧師は追放され、改革派の学校は閉鎖、教会堂は破却を命じられた。これは政教分離の観点からすれば逆行する行為であるが、当時の諸外国では「一国一宗派」の原則が守られており、ルイ14世はこの原則を確信していた。スペインの国力が衰退したなか、神聖ローマ帝国に対抗してカトリシズムの守護者を自認したいという思いの現れとも考えられる。 プロテスタントの一般信徒の亡命は勅令によって禁止されていた。しかし、宗教上の弾圧を逃れようと多数の商工業者を含むユグノーがスイス、ドイツ(とくにブランデンブルク)、イングランド、オランダ、新大陸などの国外へ大量に退去した。禁を犯して亡命した人数は、約20万人といわれる。これがフランス経済にマイナスに作用したであろうことは容易に推定されるが、実はそれ以上に亡命先の国々を富ます結果をもたらしたのであった。オランダでは亡命作家や印刷職人がルイ14世に対する政治批判の文書を大量に作成するなど、反フランスの国際世論も沸き上がらせる一助となった。フランスに残った人々には、心ならずも改宗してキリスト教や宗教そのものに関心を失うようなケースもあれば、他方ではジュネーヴ経由で戻ってきた牧師を迎えて秘密集会を継続的に開催していたケースもあった。南フランスのセヴェンヌ地方の新教徒共同体は1702年に蜂起し、国王軍に対してゲリラ戦を展開するカミザールの乱が発生した。一方、カトリック教徒の側はルイ14世のプロテスタント弾圧を大歓迎した。 ジャンセニスム(ヤンセニウス主義)とは、オランダ人神学者でスペイン領ネーデルラントのイーペルの司祭であったコルネリウス・ヤンセンとその盟友であったフランス人神学者ジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(英語版)(サン・シラン師)が唱えた教説で、カトリック信仰の上に立ちながら、人間存在は根本的に堕落しているという悲観的な人間観に立ち、神が自由に与える恩寵(恵み)なしに人間の救済はありえないと主張するなどの点でルターやカルヴァンから大きな影響を受けた思想であり、ヤンセンの遺作『アウグスティヌス』には神の予定と恩寵の絶対性が説かれている。1630年代後半以降、ジャンセニスト(ヤンセニウス派)は、神の恵みを得るにはただそれを待ちわびるのではなく、祈りと改悛の行、禁欲の護持、自己規律による絶えざる回心の努力が必要であるとする厳格主義的な信仰運動の徒として、パリ近郊のポール・ロワイヤル修道院を中心に活動した。ジャンセニスムは1641年にローマ教皇庁の検邪庁から裁定を受け、1653年には教皇庁から異端宣告を受けていたが、フランス国内では科学者・哲学者として著名なブレーズ・パスカルや劇作家のジャン・ラシーヌから強く支持されただけでなく、政府高官やパリ高等法院の司法官にも影響を与え、そのうちの何人かはポール・ロワイヤル修道院の「隠者」として行動していた。イエズス会のジャンセニスム攻撃は激しく、パスカルはこれに対してジャンセニスムを擁護してイエズス会学派の神学を皮肉る『プロヴァンスからの手紙』を執筆するなど、イエズス会とジャンセニストは激しく対立した。 なお、ジャンセニスムのフランス的展開に大きく作用したのが、パスキエ・ケネルの存在である。ケネルはジャンセニスムをガリカニスムと結びつけて展開し、イエズス会員を「教皇の走狗」であると非難した。ジャンセニストたちはルイ14世の反教皇主義的ガリカニスムを支持していたにもかかわらず、1709年に国王は警察総代官のマルク・ルネ・ダルジャンソン(フランス語版)にポール・ロワイヤル修道院を急襲させて修道女たちを追放し、翌年には礼拝堂から墓地にいたるまでの一切を破壊させるなど、ジャンセニスムを排斥した。ただし、ジャンセニスムに同調したフランス政官界には反イエズス会の傾向がその後も長く続いた。 弾圧されたのはキエティスム(静寂主義)も同様であり、ルイ14世はジャンセニスムとともにキエティスムを自らの政策に対する重大な脅威とみなした。キエティスムの運動は、スペインのアンダルシア地方出身の神学者ミゲル・デ・モリノス(英語版、スペイン語版)の神秘体験にかかわる理論を、その文通相手で文筆家のジャンヌ・ギュイヨン(ギュイヨン夫人)がフランスに持ち込んだことによって急速に広まった。 フランスでは、キエティスムの運動は神の愛(アガペー)を内面的静寂のうちに受け身で受け取ろうとする知的かつ受動的姿勢が重視されたが、その背景にはフランスにおける祈りと霊的生活が組織化かつ制度化されすぎており、形式主義に陥っていることに対する不満と反発があった。キエティスムは、一時はルイ14世の秘密結婚の相手であるマントノン公爵夫人の心をつかみ、大司教フランソワ・フェヌロンという強力な庇護者も得たが、長くは続かなかった。そして、キエティスムの運動に最大の反対者として立ちはだかったのが、宮廷説教者のジャック=ベニーニュ・ボシュエであった。フェヌロンはボシュエによって才能を見出されて司祭となった人物で、若き道徳的指導者として貴族女性たちに人気があり、ルイ14世の孫の養育係を務めるなど王室からの信頼も厚かったが、ここにおいて師弟は決定的に対立してフェヌロンは4年間沈黙を守らされ、ギュイヨン夫人は1695年から1703年までバスティーユ牢獄に投獄された。これによって観想生活はカトリックの教義に反する異端の疑いをもつものとみなされるようになり、以後のフランス人の宗教生活は大きな打撃を受けることとなった。
※この「王権による改革派・ジャンセニスム・キエティスムの弾圧」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「王権による改革派・ジャンセニスム・キエティスムの弾圧」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- 王権による改革派ジャンセニスムキエティスムの弾圧のページへのリンク