機動空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 16:35 UTC 版)
「エンタープライズ (CV-6)」の記事における「機動空襲」の解説
1942年1月11日、エンタープライズは真珠湾を出港して南太平洋のアメリカ領サモアに向かう海兵隊を運ぶ輸送船をヨークタウン以下の第17任務部隊と合同で護衛した。1月12日にはハワイ近海にいた空母サラトガが伊6の雷撃で大破し、数ヶ月に及ぶ修理を余儀なくされた。サラトガは真珠湾で応急修理をおこなった後ブレマートンに向かった。1月18日に海兵隊はサモアに上陸しエンタープライズはサモア北方150kmの地点で哨戒を行った。その後、1月25日にフランク・J・フレッチャー少将が指揮する第17任務部隊(英語版)(空母ヨークタウン、重巡ルイスビル、軽巡セントルイスほか)と合流してギルバート諸島・マーシャル諸島へ向かった。1月28日には夜間に12ノットで航行しつつ艦隊随伴油槽艦プラットから燃料補給を受けた。1月29日にヨークタウン以下の第17任務部隊と分離した。1月30日にはボイラー鋼板を加工してF4Fの装甲強化を行った。 エンタープライズは2月1日、第17任務部隊と共にマーシャル諸島・ギルバート諸島の日本陸海軍の基地に奇襲攻撃を行い、任務部隊に随伴していた巡洋艦が艦砲射撃を行った(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。4時43分にSBD37機とTBD9機(爆装)からなる攻撃隊をそれぞれクェゼリン環礁ロイ島とクェゼリン南方の投錨地へ発艦させた。続いて6時10分にF4F6機(100ポンド爆弾2発装備)をマロエラップ環礁タロア島へ向け発艦させた。内1機を発艦ミスで失った。攻撃は7時のSBDによるロイ島空襲から始まった。飛行場施設などに損害を与えたが反対にSBD4機が撃墜された。クェゼリン南方投錨地に対するTBDの攻撃は艦船や付近の陸上施設、水上機基地などへ行われた。日本軍の第6根拠地司令部へ直撃弾を与え、基地司令官の八代少将ら多数を殺傷した。開戦以来初めての日本軍将官の戦死だった。艦船に対しては50分後に待機していたTBD9機による雷撃も行われたが早爆などの魚雷の問題で1本も命中していない。マロエラップ環礁タロア島に対するF4F5機の攻撃では11機の日本軍機に迎撃を受けたものの1機を撃墜し、損傷を受けたものの撃墜されたF4Fはいなかった。ロイ島の飛行場を最大の脅威だと捉えたハルゼー中将は第2次(SBD9機)、第3次(SBD9機)と攻撃隊を送り込んだ。内1機が撃墜された。また、新たにF4F6機がウォッジェ環礁を攻撃した。続いてウォッジェへの第2次攻撃ではTBD9機(爆装)とSBD8機が送られた。クェゼリン環礁攻撃では施設損傷、将官殺傷、マロエラップ環礁攻撃では格納庫破壊、燃料タンク炎上、敵機1機撃墜、9機地上撃破、ウォッジェ環礁攻撃では格納庫破壊、燃料タンク炎上、輸送船「ぼるどう丸」撃沈、といった戦果をあげた。エンタープライズ側はSBD5機、F4F1機を失った。この他隷下の重巡艦隊により多数の日本軍艦船を撃沈撃破した。潜望鏡発見の通報などもあり、13時に30ノットで離脱を開始した。14時20分に日本軍陸攻5機の水平爆撃を受け、至近弾が1発あり小火災が発生したものの即座に消火された。日本軍機1機は被弾したためエンタープライズに向け自爆を試みたが甲板を掠める様に通過し、墜落した。16時に再び2機の攻撃を受けたが1機を撃墜した。エンタープライズは日本軍の捜索を逃れるため一旦北西に退避した後スコールに沿ってハワイへ離脱した。2月5日に真珠湾に帰港し、8日間停泊して修理を行った。このギルバート・マーシャル諸島へ対する攻撃は米海軍最初の積極的攻撃であり、これから始まる一連の日本軍領域への機動空襲の幕開けでもあった。当時の米海軍は日本海軍に絶対数で劣っていたためこのようなヒット・アンド・ランを繰り返して日本海軍の攻勢を鈍らせることを主眼に置いていた。このマーシャル・ギルバート諸島機動空襲によって日本海軍は米機動部隊による本土攻撃を警戒し第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)を迎撃用に備える措置を取った。米海軍は目的を達したといえる。 2月14日の午後にエンタープライズは真珠湾を出港した。艦隊は第8任務部隊から第16任務部隊へと改名されていた。2月24日に先のギルバート・マーシャル諸島に比べより日本に近いウェーク島を空襲した。SBD37機、TBD(爆装)9機、F4F7機から成る攻撃隊は5時に発艦。内1機が発艦ミスで墜落した。7時50分にウェーク島を爆撃した。また、スプルーアンス少将が指揮するソルトレイクシティとノーザンプトン他駆逐艦2隻の艦砲射撃も行われた。砲爆撃による戦果は大型水上機2機地上撃破、燃料タンク炎上、施設損傷、特設監視艇第5富久丸、第1美保丸の撃沈 だった。エンタープライズ側の損害はSBD1機被撃墜。9時45分までに攻撃隊は帰艦した。 エンタープライズは離脱したが、2月25日の夕方にニミッツ大将から「可能と思えば南鳥島も攻撃せよ」という電文を受け取った。これを受けて、ハルゼー中将は一旦艦隊をミッドウェー島まで後退させ、艦隊随伴油槽艦サビーネとその護衛に駆逐艦隊を残してソルトレイクシティとノーザンプトンの2隻の護衛のみで太平洋を西進した。南鳥島は日本本土から僅か1800kmの地点にある小島で小笠原諸島やマリアナ諸島の日本軍基地からは1000km程度の距離しかなかった。ミッドウェー島やハワイからは3000km程度離れていた。2月27日に水上機母艦に改造されていたラングレーがフィリピン方面で撃沈された。3月3日に南鳥島を攻撃した。4時46分にSBD31機、F4F6機から成る攻撃隊発艦開始。事故機は無かった。6時30分に爆撃を開始。戦果は施設損傷と燃料タンク炎上程度だった。エンタープライズ側の損害はSBD1機被撃墜。8時45分までに攻撃隊は帰艦し、エンタープライズは離脱した。日本軍は2月21日の攻撃で「エンタープライズ級空母」1隻を撃沈したと大本営発表を行っている。また、本土から2000km以内の拠点が攻撃されたという混乱から、翌日に日本本土で初めての空襲警報が発令されるに至った。エンタープライズは3月10日に真珠湾に帰投した。このとき12.7mm機銃を20mm機銃へと更新する改装が行われた。また、F4FがF4F-3からF4F-4へと機種変更された。 4月8日、エンタープライズはドーリットル空襲に向かう空母ホーネットの護衛のため真珠湾を出港した。B-25爆撃機を飛行甲板に搭載して艦載機の発着できないホーネットに代わって航空掩護を行うのが任務だった。4月12日6時頃にホーネット以下第18任務部隊とミッドウェー北方で合流。4月14日にタンカー、及びその護衛に駆逐艦隊を分離して更に日本に接近した。ホーネットは目標から400マイルで爆撃機を発進させる予定であった。しかし、4月18日、3時15分にエンタープライズのレーダーが水上目標を発見。6時15分に索敵にあたっていたSBDが「発見された」という通信筒をエンタープライズの甲板に投下(無線封止のため)。6時45分に目視で見張り員が敵艦を発見した。そのため7時20分に600マイルで爆撃機を発進させた。その7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた。ハルゼー提督は「諸君、利息をつけて、この勲章を返してやれ、成功を祈る」と伝言している。ドーリットル隊発艦の間にエンタープライズは発見した16隻程度の日本の哨戒艇に片っ端から攻撃した。軽巡ナッシュビルの砲撃と合わせて日本軍特設監視艇5隻を撃沈、7隻に損傷を与えた。8時19分までにドーリットル隊の発艦を完了し、8時23分に25ノットで離脱を開始した。この時、一部エンタープライズ乗組員により、「“くず鉄の航空輸送”(ドーリットル空襲を指す)に関する契約書」が作成され、ボトルメールとして日本側に向けて流されている。艦隊は日本軍の捜索の手を逃れ、4月25日に真珠湾に帰港した。 これら一連の日本軍領域内への危険な奇襲爆撃を短期間に連続して成功させたエンタープライズは本国のマスコミに度々大きく取り上げられ、指揮官のハルゼー中将と共に一躍有名になった。度重なるアメリカ軍の敗北により、士気の下がった国民を鼓舞し抗戦を諦めさせなかったという意味でもエンタープライズの果たした功績は大きいといえる。
※この「機動空襲」の解説は、「エンタープライズ (CV-6)」の解説の一部です。
「機動空襲」を含む「エンタープライズ (CV-6)」の記事については、「エンタープライズ (CV-6)」の概要を参照ください。
- 機動空襲のページへのリンク