戦時色が強まる共楽館とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦時色が強まる共楽館の意味・解説 

戦時色が強まる共楽館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:42 UTC 版)

共楽館」の記事における「戦時色が強まる共楽館」の解説

昭和に入って共楽館会場として大正期と同様、職員教化精神修養目的として行われた講演活動盛んに行われていた。中でも昭和に入ると修養団、そして国柱会外郭団体である明治会の講演活動がしばしば見られるようになった流汗鍛錬同胞相愛唱えて社会教育活動を行う修養団は、日立鉱山労務担当者にもその活動推進者現れ共楽館公演会、支部大会などを開催した。また明治会は主として尊王愛国思想唱え、やはり共楽館講演会支部大会開催した。 また修養団明治とともに昭和期入って共楽館会場とした活動盛んに行うようになったのが在郷軍人会であった日立鉱山など日立町在郷軍人会分会は、共楽館会場としてしばしば講演会行い更には映画上映会、陸軍軍楽隊演奏会銃剣術競技会といった催し物行った。そして上海事変満州事変後の1932年昭和7年9月8日から10日にかけて、共楽館会場として上海満州事変展覧会開催され共楽館での一般開放講演として同月15日には満州事変記念講演午前中に小学生高学年中学生向け、午後からは在郷軍人及び一般向けに行った1934年昭和9年1月には共楽館会場として日立鉱山国防研究会発会が行われた。会員日立鉱山のほぼ全従業員に当たる約3,500名であり、開会式においてトーキー非常時日本」を公開し国防思想普及図った。やがて戦時色が強まる中、共楽館利用戦時色濃厚となっていく。1939年昭和14年)にはこれまで盛大に行われてきた日立鉱山山神祭の花火中止となり、祭り出し物共楽館などでの従業員慰安のための芝居上演のみとし、これまで祭り充ててきた経費国防献金することになったこのような中、共楽館外観変化見せた1940年昭和15年)頃、共楽館火の見やぐら設けられのである1941年昭和16年)には温交会鉱業報国交会改組され、同年共楽館青年団女子青年団少年団統合して「高度国防国家建設のため、日立市内の青少年教育訓練徹底を図る」ことを目的とした日立市青少年団の結成が行われた。 日本本格的な戦争状態に入っていた1942年昭和17年)の共楽館利用状況見てみると、ハワイ爆撃ニュース映画上映大東亜戦争ニュース映画会、大東亜戦争講演会時局講演会映画会、日立鉱山厚生部、日立警察署共催防諜映画会など、戦意高揚戦時意識高揚目的とした催し目白押しであったまた、戦略物資として重要なの主要鉱山であった日立鉱山従業員産業戦士呼ばれ産業戦士勤労意欲上のために著名な一流芸能人たちがしばしば慰問目的日立鉱山訪れようになった戦時体制化、共楽館これまで以上に産業戦士たる鉱山従業員慰安の場として重要な役割を果たすようになった日立鉱山産業戦士慰問のために訪れた中でも1941年昭和16年9月市村羽左衛門一行40名と、1942年昭和17年6月尾上菊五郎率い松竹国民移動劇団一行来演が最も大規模なものであった市村羽左衛門公演共楽館隣の城内グラウンド行われ共楽館楽屋として利用され当時花形役者であった市村羽左衛門公演大勢人々魅了した。なお雨天時にはグラウンドではなく共楽館公演が行われる予定であった。そしてやはり歌舞伎界の名優として知られ尾上菊五郎一行は、共楽館超満員の4,000名の観客集めた。 その他、戦時体制下産業戦士慰問共楽館公演し芸能人としては、水の江滝子片岡千恵蔵原健作オペラ歌手藤原義江らがいた。また1944年昭和19年1月には大映映画スター2班分かれて来演したとの記録残っている。そして歌舞伎俳優1942年昭和17年2月共楽館緞帳完成し澤村源之助一行緞帳完成披露公演行っており、その他にもしばしば演劇団、舞踊団歌手らが産業戦士慰問公演行っていた。 戦時体制下にあって職員家族による素人演芸会は盛んであったという。1942年昭和17年)頃には共楽館日立鉱山の各職場社宅出し物が行われた後、舞台上にリング作ってボクシング行ったこともあった。そして1945年昭和20年)の7月戦況悪化する中で恒例山神祭を実施するかどうか検討されることになった実際問題、もはや祭り行えるような雰囲気ではなかったものの、日立鉱山幹部予定通り実施するように指示した結局山神祭は開催されることになり、一流芸能人を含む32名を東京から日立呼び寄せ、そして映画も4本用意して共楽館会場として例年通り山神祭を実施した。ところが山神祭の終了後アメリカ海軍第三艦隊による艦砲射撃日立襲った幸いなことに東京から呼び寄せた芸能人たちには被害無かったものの、恐怖味わった芸能人たちから「あんな恐ろしい思いをしたのは初めてでした、もう二度と日立へは行く気にはなれません」と言われてしまった。 日立1945年昭和20年6月10日7月19日空襲、そして7月17日前述艦砲射撃受けた日立空襲によって日立鉱山日立製作所甚大な被害を受け、日立市街地もほぼ全域焦土化し日立劇場映画館共楽館本山劇場諏訪会館日立鉱山施設以外全て焼失した共楽館屋根に2本の焼夷弾命中した伝えられているが、奇跡的に焼失免れた

※この「戦時色が強まる共楽館」の解説は、「共楽館」の解説の一部です。
「戦時色が強まる共楽館」を含む「共楽館」の記事については、「共楽館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦時色が強まる共楽館」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から戦時色が強まる共楽館を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から戦時色が強まる共楽館を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から戦時色が強まる共楽館を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦時色が強まる共楽館」の関連用語

1
6% |||||

戦時色が強まる共楽館のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦時色が強まる共楽館のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの共楽館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS