息子たちの反乱とは? わかりやすく解説

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息子たちの反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:52 UTC 版)

ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「息子たちの反乱」の解説

ヘンリー2世王妃アリエノールとの間には、早世したウィリアムの他、若ヘンリーアンリ1155年生)、リチャードリシャール1157年生)、ジェフリージョフロワ1158年生)、ジョンジャン1166年生)の4人の息子がいた。彼ら息子たちのうち、1人として父を裏切らない者はいなかった。 きっかけヘンリー2世愛妾ロザモンド・クリフォードを囲ったことでアリエノール不仲になったことにある。アリエノール妊娠中の1166年頃にロザモンドをウッドストック宮殿英語版)に引き入れ同居2人の関係は1173年頃とも)、それまで結婚生活愚痴言わず束の間浮気は目をつぶっていたアリエノールだが、ロザモンドの同居で夫との別居決意したアリエノール愛人との同居拒み子供たちと供の者を連れてオックスフォードボーモント宮殿英語版)へ移りそこでジョン出産夫妻の仲に修復不可能な亀裂入った1167年12月アリエノールと共にノルマンディーアルジャンタン宮廷開き、そこでポワティエアキテーヌ反乱鎮めるため、ポワティエアリエノール代理として赴任させた後、1168年1月イングランドへ戻った。妻には護衛としてソールズベリー伯爵パトリック・オブ・ソールズベリー(英語版)を付けリュジニャン家兵士襲われソールズベリー伯戦死したアリエノール逃げ延び捕虜になったソールズベリー伯の甥ウィリアム・マーシャル(後の初代ペンブルック伯)はアリエノール身代金支払い解放以後マーシャルヘンリー2世アリエノールの子供たちの忠実な側近として台頭していった。だが、アリエノールは夫からの自立画策し、自領の平定尽力しつつもアンジュー帝国から自領を切り離し子供たち与えることを計画、夫と対立してでも子供たち権利支持することを決意以後夫と別居状態に入った1169年ヘンリー2世はモンミライユ(英語版)で会見したフランス王ルイ7世提案により、14歳になる若ヘンリー後継者定めてノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを、12歳リチャードにはアキテーヌ11歳ジェフリーブルターニュ分配しルイ7世臣従礼とらせることで大陸側所領確認させた。わずか2歳だったために領地与えられなかった末子ジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名つけられ逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランド分配されるが、支配できずに逃げ帰っている)。一方アリエノール息子1人リチャード後継者定め、自領アキテーヌリチャード継承させる計画進め1170年復活祭にてリモージュリチャードアキテーヌ公戴冠式挙行している。水面下で妻が策謀巡らせ息子たちヘンリー2世に不満を抱く貴族たちを加え不穏な動き噂される中、同時期にヘンリー2世イングランド若ヘンリーの共治王戴冠式挙行1172年にはベケット暗殺事件悪化した教会との関係アヴランシュ和解修復1172年9月27日には改め若ヘンリー王マルグリット夫妻ウィンチェスター戴冠させ、翌1173年2月にはレーモン5世臣従してヘンリー2世権威絶頂達した。 ところが同年ジョンとモーリエンヌ伯の女相続人との結婚話が浮上した時、諸侯にこの話を発表した際にシノン・ルーダン・ミルボーもジョン与えることを発表したが、これに反発した若ヘンリー王自分相続分からこの3つの城を削られることに反対した。共治王として実権が無い不満、自身教育係だったベケット暗殺事件生じた父に対す不信感もあり、若ヘンリー王自分実権譲渡主張したが、当時30代だったヘンリー2世息子への領地分配を単に名目上のものと考えていたため却下した婚約自体成立した若ヘンリー王の父への反発大きく3月7日若ヘンリー王敬愛しベケット同様、父の支配逃れるべくルイ7世のもとへと走り、父と不仲になった母や2人の弟リチャード・ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こすプランタジネット朝父子仲違い好機見たルイ7世若ヘンリー王協力宗主権利用して若ヘンリー王庇護し上でフランス諸侯召集スコットランド王ウィリアム1世ブロワ伯ティボー5世ブローニュマチューと弟のフランドル伯フィリップらが若ヘンリー王加勢した。 反乱規模大きくイングランドアキテーヌブルターニュノルマンディー辺境地域蜂起したヘンリー2世にはノルマンディー大部分アキテーヌ少数派貴族主要都市忠誠貫いていたが状況は不利で、この時期ヘンリー2世教皇へ宛てた手紙反乱起こした子供たち敵対嘆き自分家族に命を狙われる状況悲痛な様子書き綴っている。 しかし、6月始まった戦い序盤こそ不利だったが、ヘンリー2世ありったけの金をかき集めて2万人のブラバント傭兵雇い、得意戦術である素早い用兵縦横無尽アンジュー帝国駆けず回り反乱軍討伐8月ノルマンディー解放してルイ7世の軍を退却させた。1174年1月反乱首謀者目されアリエノールフランス宮廷へ逃げようとした所を捕らえシノン城幽閉続いてイングランドへ渡りカンタベリー大聖堂にあるベケットの墓を詣で墓前祈り捧げ心機一転すると、イングランド留守を預かっていたグランヴィルウィリアム1世捕らえたとの報告を受け窮地から立ち直り引き続き反乱軍討伐奔走する一方でアリエノールシノン城からイングランド南西ソールズベリーの塔へ移し監禁した以降ヘンリー2世優勢8月ルーアン包囲したルイ7世の軍を再び退却させ、9月までに反乱鎮圧して全面勝利に終わらせた。そしてヘンリー2世若ヘンリー王息子たち和解したが、アリエノールだけは以後15年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活強いたヘンリー2世若ヘンリー王らを許し両者の間で和解成立ウィリアム1世臣従記したファレーズ条約息子たち措置確認された。若ヘンリー王は共治王の称号留め置かれたが、ノルマンディーからの収入半分所有していた4つの城減らされ上でアンジェから得られる1万5000ポンド年給2つの城を改め受け取りリチャードアキテーヌ収入半分2つの城を、ジェフリーブルターニュ授かったジョンには反乱の原因となった3つの城を受け取代わりにリチャードジェフリー共有する領地からの年貢と城が与えられた(もう1つ原因である結婚話は相手急死破談)。反乱教訓として息子たちにいくら自治権授けた名目的過ぎず実権渡さない姿勢崩さず息子たち臣従させ(リチャードジェフリー1172年若ヘンリー王1175年に父へ臣従)、以後若ヘンリー王君主として実権がない状況変化はなかった。また反乱混乱から秩序回復するため、ノーサンプトン条例代行制・武装条例などに見られる司法・行政軍事改革推進していった。 反乱鎮圧後はアリエノールとの離婚教皇願い出て却下され再婚相手リチャード婚約者ルイ7世2番目の妃コンスタンスの娘アデル若ヘンリー王の妃マルグリット同母妹)の名が取り沙汰されアデル結婚しないままヘンリー2世元に留め置かれていたためヘンリー2世との間に醜聞疑われるなど(アデルルイ7世リチャード同盟阻止するための人質だったとも)、家庭内不和収まらないままだったが、領内外交小康保ち平和な日々過ごしたルイ7世1180年死去しフィリップ2世即位1182年ヘンリー2世はようやく若ヘンリー王君主として権限与えるべく、リチャードジェフリー対し若ヘンリー王への臣従礼とらせようとした。ところがジェフリー最終的に従ったが、リチャード若ヘンリー王への臣従拒みアキテーヌ戻って反抗した。そのため若ヘンリー王ジェフリーリチャード攻撃する騒ぎになったが、兄弟争い1183年若ヘンリー王病死したことで終息リチャードヘンリー2世後継者となったヘンリー2世内戦病身若ヘンリー王見舞い行こうとしたが、若ヘンリー王警戒した側近止められ息子の死に目に会えず(代わりにサファイア指輪息子送った)、息子の死悲しみながらもアンジュー帝国相続再分配迫られた。 1184年11月30日、リチャード・ジェフリー・ジョンの3人の息子始め一時釈放したアリエノール加えてウェストミンスター宮殿聖アンドレの日を家族祝った続いて12月ウィンザー城家族会議開き若ヘンリー王の死で変更迫られアンジュー帝国領地相続について話し合ったリチャードは母の気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、父の死後イングランド王となってからは戦争明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であったが、ヘンリー2世アリエノール影響力大きリチャード危険視して愛情与えず代わりにアリエノール疎まれジョン溺愛した。相続領分配でそうしたヘンリー2世意向現れリチャードには若ヘンリー王与えるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーブルターニュ相続ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌを譲らせることを命令した。だがリチャードは、兄と同じく実権の無い共治王にされる恐れがあるこの命令拒絶したため、リチャードなだめるためアリエノールへのアキテーヌ返還了承させ、ジョンアキテーヌ継承諦めた一方ジェフリーは父から離れフィリップ2世のもとへ身を寄せ1186年パリフィリップ2世開催した馬上槍試合での怪我がもとで急死したジェフリーと妃コンスタンスの間に孫アルテュール1世アーサー)が生まれたが、プランタジネット家を嫌うコンスタンス意向アーサーフランス宮廷へ預けられブルターニュアンジュー帝国から離れていった。

※この「息子たちの反乱」の解説は、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「息子たちの反乱」を含む「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

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