息子たちの反乱
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「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「息子たちの反乱」の解説
ヘンリー2世と王妃アリエノールとの間には、早世したウィリアムの他、若ヘンリー(アンリ、1155年生)、リチャード(リシャール、1157年生)、ジェフリー(ジョフロワ、1158年生)、ジョン(ジャン、1166年生)の4人の息子がいた。彼ら息子たちのうち、1人として父を裏切らない者はいなかった。 きっかけはヘンリー2世が愛妾ロザモンド・クリフォードを囲ったことでアリエノールと不仲になったことにある。アリエノールが妊娠中の1166年頃にロザモンドをウッドストック宮殿(英語版)に引き入れ同居(2人の関係は1173年頃とも)、それまで結婚生活に愚痴を言わず、束の間の浮気は目をつぶっていたアリエノールだが、ロザモンドの同居で夫との別居を決意したアリエノールは愛人との同居を拒み、子供たちと供の者を連れてオックスフォードのボーモント宮殿(英語版)へ移りそこでジョンを出産、夫妻の仲に修復不可能な亀裂が入った。 1167年12月、アリエノールと共にノルマンディーのアルジャンタンで宮廷を開き、そこでポワティエとアキテーヌの反乱を鎮めるため、ポワティエへアリエノールを代理として赴任させた後、1168年1月にイングランドへ戻った。妻には護衛としてソールズベリー伯爵パトリック・オブ・ソールズベリー(英語版)を付け、リュジニャン家の兵士に襲われソールズベリー伯は戦死したがアリエノールは逃げ延び、捕虜になったソールズベリー伯の甥ウィリアム・マーシャル(後の初代ペンブルック伯)はアリエノールが身代金を支払い解放、以後マーシャルはヘンリー2世とアリエノールの子供たちの忠実な側近として台頭していった。だが、アリエノールは夫からの自立を画策し、自領の平定に尽力しつつもアンジュー帝国から自領を切り離し、子供たちへ与えることを計画、夫と対立してでも子供たちの権利を支持することを決意、以後夫と別居状態に入った。 1169年、ヘンリー2世はモンミライユ(英語版)で会見したフランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、ルイ7世に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが、支配できずに逃げ帰っている)。一方、アリエノールは息子の1人リチャードを後継者と定め、自領アキテーヌをリチャードへ継承させる計画を進め、1170年の復活祭にてリモージュでリチャードのアキテーヌ公戴冠式を挙行している。水面下で妻が策謀を巡らせ、息子たちとヘンリー2世に不満を抱く貴族たちを加え不穏な動きが噂される中、同時期にヘンリー2世もイングランドで若ヘンリーの共治王戴冠式を挙行、1172年にはベケット暗殺事件で悪化した教会との関係もアヴランシュの和解で修復、1172年9月27日には改めて若ヘンリー王とマルグリット夫妻をウィンチェスターで戴冠させ、翌1173年2月にはレーモン5世も臣従してヘンリー2世の権威は絶頂に達した。 ところが同年、ジョンとモーリエンヌ伯の女相続人との結婚話が浮上した時、諸侯にこの話を発表した際にシノン・ルーダン・ミルボーもジョンに与えることを発表したが、これに反発した若ヘンリー王が自分の相続分からこの3つの城を削られることに反対した。共治王としての実権が無い不満、自身の教育係だったベケット暗殺事件で生じた父に対する不信感もあり、若ヘンリー王は自分へ実権の譲渡を主張したが、当時30代だったヘンリー2世は息子への領地の分配を単に名目上のものと考えていたため却下した。婚約自体は成立したが若ヘンリー王の父への反発は大きく、3月7日に若ヘンリー王は敬愛したベケット同様、父の支配を逃れるべくルイ7世のもとへと走り、父と不仲になった母や2人の弟リチャード・ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こす。プランタジネット朝の父子の仲違いを好機と見たルイ7世も若ヘンリー王に協力、宗主権を利用して若ヘンリー王を庇護した上でフランス諸侯を召集、スコットランド王ウィリアム1世、ブロワ伯ティボー5世、ブローニュ伯マチューと弟のフランドル伯フィリップらが若ヘンリー王に加勢した。 反乱の規模は大きく、イングランド、アキテーヌ、ブルターニュ、ノルマンディー辺境地域が蜂起した。ヘンリー2世にはノルマンディーの大部分とアキテーヌの少数派貴族と主要都市が忠誠を貫いていたが状況は不利で、この時期にヘンリー2世が教皇へ宛てた手紙で反乱を起こした子供たちの敵対を嘆き、自分が家族に命を狙われる状況を悲痛な様子で書き綴っている。 しかし、6月に始まった戦いは序盤こそ不利だったが、ヘンリー2世はありったけの金をかき集めて2万人のブラバント人傭兵を雇い、得意戦術である素早い用兵で縦横無尽にアンジュー帝国を駆けずり回り反乱軍を討伐、8月にノルマンディーを解放してルイ7世の軍を退却させた。1174年1月に反乱の首謀者と目されたアリエノールをフランス宮廷へ逃げようとした所を捕らえシノン城へ幽閉、続いてイングランドへ渡りカンタベリー大聖堂にあるベケットの墓を詣で、墓前で祈りを捧げ心機一転すると、イングランドで留守を預かっていたグランヴィルがウィリアム1世を捕らえたとの報告を受け窮地から立ち直り、引き続き反乱軍討伐に奔走する一方でアリエノールをシノン城からイングランド南西のソールズベリーの塔へ移し監禁した。以降はヘンリー2世が優勢で8月にルーアンを包囲したルイ7世の軍を再び退却させ、9月までに反乱を鎮圧して全面勝利に終わらせた。そしてヘンリー2世は若ヘンリー王ら息子たちと和解したが、アリエノールだけは以後15年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いた。 ヘンリー2世は若ヘンリー王らを許し両者の間で和解が成立、ウィリアム1世の臣従を記したファレーズ条約で息子たちの措置も確認された。若ヘンリー王は共治王の称号は留め置かれたが、ノルマンディーからの収入の半分と所有していた4つの城を減らされた上で、アンジェから得られる1万5000ポンドの年給と2つの城を改めて受け取り、リチャードはアキテーヌの収入の半分と2つの城を、ジェフリーはブルターニュを授かった。ジョンには反乱の原因となった3つの城を受け取る代わりに、リチャードとジェフリーの共有する領地からの年貢と城が与えられた(もう1つの原因である結婚話は相手の急死で破談)。反乱の教訓として息子たちにいくらか自治権を授けたが名目的に過ぎず、実権を渡さない姿勢を崩さず息子たちを臣従させ(リチャードとジェフリーは1172年、若ヘンリー王は1175年に父へ臣従)、以後も若ヘンリー王に君主としての実権がない状況に変化はなかった。また反乱の混乱から秩序を回復するため、ノーサンプトン条例・代行制・武装条例などに見られる司法・行政・軍事改革を推進していった。 反乱鎮圧後はアリエノールとの離婚を教皇に願い出て却下され、再婚相手にリチャードの婚約者でルイ7世と2番目の妃コンスタンスの娘アデル(若ヘンリー王の妃マルグリットの同母妹)の名が取り沙汰され、アデルが結婚しないままヘンリー2世の元に留め置かれていたためヘンリー2世との間に醜聞が疑われるなど(アデルはルイ7世とリチャードの同盟を阻止するための人質だったとも)、家庭内不和が収まらないままだったが、領内と外交は小康を保ち平和な日々を過ごした。ルイ7世は1180年に死去しフィリップ2世が即位、1182年にヘンリー2世はようやく若ヘンリー王に君主としての権限を与えるべく、リチャードとジェフリーに対し若ヘンリー王への臣従礼をとらせようとした。ところがジェフリーは最終的には従ったが、リチャードは若ヘンリー王への臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため若ヘンリー王とジェフリーがリチャードを攻撃する騒ぎになったが、兄弟の争いは1183年に若ヘンリー王が病死したことで終息、リチャードがヘンリー2世の後継者となった。ヘンリー2世は内戦中病身の若ヘンリー王を見舞いに行こうとしたが、若ヘンリー王を警戒した側近に止められ息子の死に目に会えず(代わりにサファイアの指輪を息子へ送った)、息子の死に悲しみながらもアンジュー帝国相続の再分配に迫られた。 1184年11月30日、リチャード・ジェフリー・ジョンの3人の息子を始め一時釈放したアリエノールも加えて、ウェストミンスター宮殿で聖アンドレの日を家族で祝った。続いて12月にウィンザー城で家族会議を開き、若ヘンリー王の死で変更に迫られたアンジュー帝国の領地相続について話し合った。リチャードは母の気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、父の死後にイングランド王となってからは戦争に明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であったが、ヘンリー2世はアリエノールの影響力が大きいリチャードを危険視して愛情を与えず、代わりにアリエノールに疎まれたジョンを溺愛した。相続領分配でそうしたヘンリー2世の意向が現れ、リチャードには若ヘンリー王へ与えるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーにブルターニュを相続、ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌを譲らせることを命令した。だがリチャードは、兄と同じく実権の無い共治王にされる恐れがあるこの命令を拒絶したため、リチャードをなだめるためアリエノールへのアキテーヌ返還を了承させ、ジョンのアキテーヌ継承は諦めた。一方、ジェフリーは父から離れフィリップ2世のもとへ身を寄せ、1186年、パリでフィリップ2世が開催した馬上槍試合での怪我がもとで急死した。ジェフリーと妃コンスタンスの間に孫アルテュール1世(アーサー)が生まれたが、プランタジネット家を嫌うコンスタンスの意向でアーサーはフランス宮廷へ預けられ、ブルターニュはアンジュー帝国から離れていった。
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