息子との再会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 15:11 UTC 版)
一方、時を同じくして、トマスの息子アレグザンダーも北アイルランドで、トマスと同じ問題に悩んでいた。父と同じく長老派教会の牧師となったアレグザンダーも、教会が信徒を教派の名のもとに支配する現状に苦悩した。アレグザンダーは聖餐式を自主的に行わないことにし、しばらく悶々とした日々を過ごしたが、父のいるアメリカへ移住することで、事実上、長老派教会から離れる決意をした。 トマスとアレグザンダーは、それぞれ別々に同じ疑問を抱き、それぞれ長老派教会から離脱することとなったが、互いが同じ状況に陥っていることについて、アメリカの地で再会するまで知らなかった。アレグザンダーは父がまとめた『ワシントン・クリスチャン協会の宣言および提言』を読み、今後の伝道のビジョンを明確にした。 その後、トマスはワシントン・クリスチャン協会が新たな教派に発展することを恐れ、協会の会員が長老派教会のうちで信徒としての交わりを得られるよう、1810年に長老派の教会団体あてに申請を出したが、団体はトマスの申請を却下し、協会が行ってきた活動自体も激しく批判した。こうして既成の教会団体から敵意を向けられた、トマスらのワシントン・クリスチャン協会は、自らが信ずるところの聖書に基づく教会を、自分たちで作らなければならないという決断を下すこととなった。しかし、「協会が教会に変化したとしても、いかなる教派にも属さず、聖書(特に新約聖書)に則った教会を作ることで、信徒は一致に至るはずだ」というトマスらの信念は揺るがなかった。また、トマスはこのころから農場経営を始めた。一方アレグザンダーも1811年に結婚し、妻の父が経営する農場で働き始めた。トマスとアレグザンダーはそれぞれ別の土地で、新たな職を手にすることとなった。
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