息子との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 17:40 UTC 版)
「マリア (ルーマニア王妃)」の記事における「息子との確執」の解説
フェルディナンドとマリアの長男カロル(後のカロル2世)は、父親と生涯を通じて断絶状態にあった。マリアとカロルは深い親子の結びつきを保っていたが、これものちにマリアが愛人シュティアベイ公との関係を続けていることを知ったことから、悪化した。マリアは、カロルが自身で花嫁を選ぶより、母親の自分がふさわしい女性を外国王家から見つけたいと考えていた。ところがカロルはパリで、母の友人ロイ・フラーに愛人マグダ・ルペスクと親密にしているところを見られてしまった。2人は、フラーとマリアの友人関係に気づいていなかった。フラーはすぐさまマリアにこのことを知らせたが、カロルとマグダを引き離すのに失敗した。王位についたカロルは母の忠告を退け、断絶は決定的となった。 1927年の夫の死後、ルーマニアに残ったマリアは著作と回顧録を執筆した。彼女は1938年に亡くなり、クルテア・デ・アルジェシュ大聖堂(16世紀建立、アルジェシュ地方)の夫の隣に葬られた。マリアの遺志により、彼女の心臓はバルチクのバルチク宮殿(マリアが建設させた)の納骨堂に納められた。1940年、バルチク宮殿とドブロジャ南部(英語版)がクラヨーヴァ条約によりブルガリア王国に返還されると、王妃の心臓はブラン城に移送された。 晩年にバハイ教に改宗していたことが明らかにされた。
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