幕末・明治の写真とは? わかりやすく解説

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幕末・明治の写真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:52 UTC 版)

日本写真史」の記事における「幕末・明治の写真」の解説

1852年アメリカ出港したマシュー・ペリー艦隊には、写真家のエリファレット・ブラウン(Eliphalet M. Brown, Jr.)が加わっていた。ブラウンダゲレオタイプ銀板写真)の技術によって人物日本各地風景撮影したそのうち人物写真6点現存しており、日本最古写真とされる横浜に近い石川郷(横浜市中区石川町)の名主は、ブラウンが「写真鏡」を用いて撮影おこなった様子記している。 1860年始め、もともと中国写真館経営していたオリン・フリーマン横浜日本最初写真館開いた。翌1861年フリーマン機材一式購入した鵜飼玉川江戸薬研堀日本人による最初写真館開いた日本の写真の祖として知られる上野彦馬は、長崎医学伝習所化学視点から写真術研究行っていたが、来日したネグレッティ&ザンブラ社(Negretti and Zambra)の特派員プロ写真家であったピエール・ロシエから、本格的に湿式写真学んだ1862年には長崎上野撮影局開業するが、ここで撮影され坂本龍馬肖像写真は有名である。同年には、横浜在住アマチュア写真家であったジョン・ウィルソン機材譲り受けた下岡蓮杖写真館開業している。1863年には堀与兵衛大坂与兵衛)が京都寺町通写場開設し1864年にはロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチから学んだ木津幸吉箱館で、上野弟子である富重利平1866年柳川開業したその後、彼は熊本移り西南戦争の跡や、熊本風物人物撮影している。島霞谷幕末の1862(文久2)年頃江戸下谷写真館開いており、妻の島隆日本最初女流写真家となった1867年市田左右太が京都写真館開店1870年神戸進出し1882年元町移転)。1868年慶應4年)には横山松三郎江戸両国写真店開業しその後上野移り通天」と号して営業した。同年上野彦馬弟子内田九一大阪写真館開き横浜・東京にも進出して1872年宮内省御用掛の写真師第1号として明治天皇肖像写真撮影し有名になった。同じく慶應4年新聞には呉竹亭と名乗る人物の写真術個人教授広告登場した明治入り1870年には神田柳町現・神須田町2丁目)に沢崎錦栄写真所が開業する。翌1871年には横山弟子北庭筑波伊井蓉峰の父)が浅草花屋敷写真館開き1874年鵜飼玉川門下深澤要写真講座をもとに日本初写真誌『脱影夜話』を創刊し(のち『ホトグラヒー』『写真雑誌』と誌名変遷)、写真ジャーナリズム先駆けとなった同じく1871年には北庭助言浅沼藤吉日本最初写真材料浅沼商会日本橋呉服町創設1875年には初の国産台紙製造販売開始する1873年には横浜居留地写真業営んでいたスチルフリード有料写真講習開始し1874年には下岡弟子鈴木真一横浜写真館開業した幕末・明治初期写真大きな影響与えたのがフェリーチェ・ベアトである。ベアト1863年から1884年まで日本暮らしたが、日本水彩画技法取り入れた着色写真で有名である。ライムント・フォン・シュティルフリート写真術ベアト学び写真館シュティルフリート・アンド・アンデルセン(「日本写真社」とも)を作ったベアト弟子日下部金兵衛発売した螺鈿細工蒔絵表紙施した豪華なアルバムは、「横浜写真」と呼ばれ有力な輸出商品となった。彼らの写真にはヌード写真もあり、日本人好事家用のポルノヌード写真もあった。 明治9年1876年)、日本における最初写真版保護に関する立法が、写真条例として制定された(明治9年太政官布告90号)。その第1条には「凡ソ人物山水其他ノ諸物象ヲ写シテ願出ツルトキハ五年間専売ヲ与フヘシ之ヲ写真版と称ス」とある。同年横山教官に、陸軍士官学校写真教育開始され横山1878年日本初空撮行なった1882年には銀座写真館経営していた二見朝隈の支援深沢要が『写真新報』を創刊した。 1883(明治16)年に東京浅草写真師江崎礼二イギリスから輸入したジョゼフ・スワン考案ゼラチン乾板使って隅田川での海軍による水雷爆発瞬間撮影したそれまでのコロディオン湿板法での撮影には秒単位露出が必要で、なおかつ撮影現場感光板調製しなくてはならなかったのに対して、これは感光度圧倒的に早く撮影対象大幅に拡大したことと、撮影現場での暗室不要とした工業生産品であることの2点によって革新的であった。このゼラチン乾板登場により、高度な知識技術的熟練要した写真撮影容易になり、専門家である写真師だけでなく、一般愛好家増えていった。 明治20年1887年)、写真条例廃止され写真版条例制定された。写真版条例明治20年勅令79号)では写真とは「凡ソ光線薬品トノ作用ニヨリ人物器物景色他物象ノ真形ヲ写シタルモノ」をいい、写真版写真発行してその利益享有するをいった(第1条)。写真版写真師属し第2条)、人物写真以外の写真版権登録が保護要件とされた(第3条)。保護期間は登録の日から10年第6条)。明治32年著作権法制定とともに廃止された。1889年には、当時の有名写真師在日外国人写真愛好家などにより、日本初写真団体日本寫眞會発足した明治27年1894年)、日清戦争において陸地測量部従軍写真班の小倉倹司が、従来乾板代わりフィルム使用した撮影行った。これが日本におけるフィルム使用最初ではないかといわれている。 同じく1894年には日本最古写真専門学校と言われる写真講習所仮場」が創設され1902年には「女子写真伝習所」が設立された。当時写真西洋先端的科学技術であるとともに人間思考社会深く関わる「知」として日本社会受容され浸透していった。

※この「幕末・明治の写真」の解説は、「日本写真史」の解説の一部です。
「幕末・明治の写真」を含む「日本写真史」の記事については、「日本写真史」の概要を参照ください。

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