幕末 - 戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:49 UTC 版)
1855年に幕府から北方警固を拝命し、1859年の6藩分領以降、蝦夷地(現在の北海道)にも陣屋のある浜益と天塩(増毛を除く)を領有した。北海道石狩市には、荘内藩(庄内藩)ハママシケ陣屋跡が国指定史跡として残る。1860年に設けられ、奉行長屋や兵糧小屋のほか神社、水路(千両堀)も整備されて、藩士のほか職人、農民を含めて800人が移り住んで開拓を進めたが、戊辰戦争勃発で本領に引き揚げた。 元治元年(1864年)、江戸市中警護の功により17万石の格となり、慶応元年(1865年)に改めて、かねてから庄内藩の預地となっていた村山郡谷地地方などを中心に2万7,000石を加増され、領知高は16万7,071石余に達した。 慶応3年12月(1868年1月)、上山藩などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられ実行、戊辰戦争の口火を切るとともに、後に明治政府軍による徳川将軍家武力討伐の口実や、奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなった(戊辰戦争#東北戦争)。 1868年の戊辰戦争では、1867年、松平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄による藩論の統一を経て、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した新庄藩、久保田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田藩へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した佐賀藩(正確には佐賀藩内の武雄鍋島家)の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。 列藩同盟盟主の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外の全ての藩が恭順した。明治元年9月26日(1868年11月10日)、庄内藩も恭順したが、最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。なお、戊辰戦争の直前および交戦中には会津藩とともに、当時のプロイセン王国に対して駐日代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている。 明治元年12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた『西郷南洲翁遺訓』が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人荘内南洲会により南洲神社が運営されている。 明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。同年、胆振国虻田郡を領有している。明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県や鶴岡県への改名を経て、1876年8月21日に山形県に編入された。酒井氏は明治17年(1884年)に伯爵となり華族に列している。 当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士・清河八郎がいる。
※この「幕末 - 戊辰戦争」の解説は、「庄内藩」の解説の一部です。
「幕末 - 戊辰戦争」を含む「庄内藩」の記事については、「庄内藩」の概要を参照ください。
- 幕末 - 戊辰戦争のページへのリンク