幕末・明治以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 11:50 UTC 版)
11代玄々斎精中は10代認得斎柏叟の女婿として10歳のときに奥殿藩大給松平家から養子に入った人である。それまでの歴代が禅的消極的であったのに対し、茶道以外にも華道、香道、謡曲などに通じていて、茶箱点や立礼式の創始、和巾点の復興など、明朗で積極的な人であった。立礼式は明治5年(1872年)の博覧会に際して外国人を迎えるための創案であり、また同じ年に『茶道の源意』を著して茶道は遊芸とする風潮を批判するなど、幕末から明治の変動の時代に合わせた茶道の近代化の先駆として評価されている。 明治4年、京角倉家から養子に入ったのが、12代又玅斎直叟である。明治の混乱期の中、新しい裏千家の基礎固めに努め、34歳で家督を長男駒吉(後の13代円能斎鉄中)に譲ったのちも側面から流儀の伸長をはかった。円能斎は明治29年まで6年にわたって東京に居を移して協力者を求め、京都に戻ってからも教本の出版や機関誌 「今日庵月報」などの発行を通して一般への茶道普及に尽力した。また女学校教育の中に茶道を取り入れ、かつ教授方針の一致をはかる講習会を催すなど裏千家茶道の組織化にも力を注いだ。その他、三友式の創始や、流し点や大円点の復興などの功績がある。 戦後になって14代淡々斎碩叟が茶道の学校教育への導入を働きかけた結果、学校のクラブ活動で教えられる茶道の大半は裏千家となっている。淡々斎はまた各地の寺院・神社にて献茶・供茶を行ったり、海外への普及に取り組んだりと、茶道振興に功が大きい。全国統一の同門組織として「社団法人茶道裏千家淡交会」を結成し、また家元を財団法人化するなど、裏千家茶道の組織化も引き続き行われ、流派別の茶道人口としては最大規模を誇るようになった。こうした普及・組織化の活動は15代鵬雲斎汎叟にも引き継がれ、特に海外普及に力を注がれた。鵬雲斎はまた社団法人日本青年会議所会頭を務めた。
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