安土桃山時代・江戸時代
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その後豊臣秀吉の天下統一を経て、上杉景勝の会津転封にも従う。秀吉死後の関ヶ原の戦いで上杉家は西軍石田三成方についたため減封となり、能元も米沢に移った。安田家は代々にわたって続いていくことになる。 また毛利氏に復姓し、米沢藩家老を務める者もいた。江戸時代の分領家の系図については米沢藩#分領家(14戸)を参照。
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安土桃山時代・江戸時代
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1586年(天正14年) - 島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われる。 1593年(文禄2年) - 豊臣秀吉の臣下に入った大友氏第22代当主大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。 1594年(文禄3年) - 早川長政が代官として府内に入る。長政は、当初は家島に仮館を構え、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている。 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する(海城)。当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでおり、この地では大友氏の時代に船の荷役が行われていた場所で「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。 1602年(慶長7年) - 天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。 1634年(寛永11年) - 重利の子・重義が長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。 1656年(明暦2年) - 吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。 1658年(万治元年) - 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。 1743年(寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
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安土桃山時代・江戸時代
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佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は1584年(天正12年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。 直茂は早くも、1585年(天正13年)には村中城改修を計画している。しかし未だ当主であった龍造寺政家の居城であり、直茂は蓮池城が居城であったため、主家に憚って計画には手を付けなかった。計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、1602年(慶長7年)本丸の改修を始めてからである。直茂の計画に則り、次の藩主鍋島勝茂が1611年(慶長16年)に完成させた。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、小倉城天守の図面を参考に高さ38m(現在の12階建てビルの高さに相当する)外観4重内部5階建ての天守も建造された。また、元和の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。 城は幾度も火災に見舞われた。特に1726年(享保11年)には大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。これにより御殿などが1728年(享保13年)に二の丸に完成し、藩政は二の丸を中心に行われた。更に1835年(天保6年)の火災では二の丸を焼失。これにより再び本丸再建が行われ政務は本丸に移った。現存する鯱の門・続櫓はこの再建時の1838年(天保9年)に完成したものである。同時に立てられた本丸御殿は、明治維新以後、裁判所や学校として利用された。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。
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安土桃山時代・江戸時代
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1600年(慶長5年) - 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった名島城に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。1601年(慶長6年)には築城が開始され、7年後の1607年(慶長12年)に竣工した。 江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に、11代藩主、黒田長溥により大改修が行われた。
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安土桃山時代・江戸時代
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中世までは貫高制が一般的であったが、当時の日本では貨幣の鋳造を行っていなかった事から、経済の発展に貨幣供給量が追いつかない事態となった。そのため安土桃山時代においては、豊臣秀吉による太閤検地によって石高制が採用された。その結果、年貢は米によって徴収され、また支配階層である武士の俸禄は地方知行・蔵米知行など米を基準とした体系を取った。 江戸時代に入って貨幣の鋳造が本格的に行われるようになるが、三貨制度にあって金貨・銀貨・銅貨(銭)の交換比率は変動相場制であったために、米が基軸通貨的役割を果たした。このため、米価は江戸幕府や諸藩の財政に直結したばかりでなく、支配階層である武士の生活基盤そのものを左右した。 また、直接生産者である農民の収入は勿論のこと、職人や商人も消費層である武家層の貧窮化による影響を受け、米以外の物資の価格(「諸色」)の価格はその時々の米価に連動すると考えられていた。米価は度重なる冷害・虫害等による飢饉や買い占めで高騰することがしばしばあり、百姓一揆・打ちこわしなどの社会不穏を誘発した。 そのため米価対策は物価・貨幣政策とともに幕府や領主権力にとって懸案事項であり、将軍徳川吉宗・町奉行大岡忠相の主導した享保の改革においては空米取引の許可や買米・囲米の実施、公定価格の設定、米会所への介入などを米価対策として実施した。 以下に『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における物価の動態』を基に作成した銀建による米価の変遷を示す。
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