日根野氏とは? わかりやすく解説

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日根野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 20:53 UTC 版)

日根野氏
(家紋)
本姓 中原氏
源氏
藤原氏
日根造?[1]
家祖 日根野永盛
種別 地下家
出身地 和泉国日根郡中庄湊浦
主な根拠地 和泉国日根郡
美濃国大野郡本田城
著名な人物 日根野盛治
日根野弘就
凡例 / Category:日本の氏族

日根野氏(ひねのし)は、平安時代から江戸時代にかけての武家日根氏とも。

出自

日根野氏の祖は源永盛とされるが、永盛の出自は不明である。永盛は和泉国長滝荘の開発領主であり、その子孫が上東門院に寄進したことで長滝荘として立荘し、代々荘官(下司・公文)を相続した[2]。『寛永諸家系図伝』には「本姓源氏。基遠に至って藤原氏に改めた」とある[3]。『寛政重修諸家譜』には「先祖は和泉国日根郡中庄湊浦に住み、日根氏を称した後に日根野氏を称した」とある[4]

また、史料から日根野氏の本姓中原氏とする説も存在する[5]天福元年(1233年)には中原盛実長滝荘荘官となっており、翌年には九条家日根荘が成立した。文永3年(1266年)と文永9年(1272年)には、中原盛経が九条家政所から日根荘井原村・入山田村の預所職に任命されている。正中2年(1325年)には中原盛治が長滝荘荘官に任命されている[6]

古墳時代から日根郡を拠点していた日根造を祖とする説がある。天平9年(737年)の和泉監正税嵯に大領従七位上勲十二等・日根造玉纏と擬主帳外従八位下・日根造五百足の名前が見える。また同19年(747年)の優婆貢進解に、河内国日根郡可美郷戸主・日根造夜麻が見える。日根造は『新撰姓氏録』によると新羅系の渡来人で億斯富使主が祖であるとされる[1]。「日根野家文書」所収の「日根野一系」でも「日根野尸(かばね)者造也」とされる[7]。樫井川流域を開発した日根造(ひねのみやつこ)は新羅からの渡来人の子孫であり、祖先の億斯富使主を祀った[8]

概要

「長滝荘弥富方下司系図」によると、天福元年(1234年)に中原盛実が和泉国長滝荘の預所・弥富方下司に補任されたという[注釈 1]宝治2年(1248年)には弥富方下司職と一荘公文職が中原盛実から子の浄願(中原盛直)へ譲られている[注釈 2]。その後、下司職は中原明心(浄願の子)[注釈 3]→五条局[注釈 4]→四条局[注釈 5]盛治[注釈 6]二郎法師丸(時盛)[注釈 7]と継承された[2]

一方、長滝荘には開発領主・源永盛の系譜を引き、下司・公文職を相伝してきたと称する藤原氏もいた。文永元年(1264年)、□衛門少尉・藤原章致は、中原明心による非分の領知を停止し、自らに弥富名下司・公文職を還補されるよう訴えている。そして嘉元3年(1305年)には、孫の左衛門尉・致有[注釈 8]が荘官であった。藤原氏と中原氏の相論は、正和5年(1316年)まで解決されずに継続した。この年、致有の父・藤原雅致の代官である康胤の父・康遠が殺害されたことに対し、康胤が庄家に乱入し苅田・放火に及んだ。そのため、近衛家は弥富名下司職を収公し、久米田寺に寄付している[2]

一旦収公された弥富方下司職も正中2年(1325年)には中原氏に還補され、元徳2年(1330年)には、中原盛実は下司・公文職を丹生社へ寄進している。藤原氏との争いの中で、自身の正統性を主張するために、日根野氏は藤原氏(開発領主・源永盛)の系譜を取り込む形で「日根野系図」を作成した[2]

日根野盛治九条家に仕える荘官として長滝荘と日根荘を支配した。元弘2年(1332年)12月25日付の北条茂時北条守時による連署状では、楠木正成討伐の軍に加わるようにと記されている。だが元弘3年(1333年)5月25日には京都にいた足利高氏(尊氏)に従っている[9]建武4年(1337年)5月には盛治の親族と見られる日根野盛定(盛貞)が軍忠状を送られている。文和3年(1354年)10月15日には、盛治が子の日根野時盛に対して譲状を出している。文永年間(1364年1375年)には、日根野盛経が日根荘井原村・入山田村の預所にもなっている。

斎藤義龍に仕えた日根野弘就は、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎喜平次兄弟を稲葉山城内で殺害している。永禄元年(1558年)頃に義龍が姓を一色氏に改めたのちには、永禄9年(1566年)から延永姓へと改め、延永備中守弘就を称した[4]。『信長公記天正8年(1580年)閏3月16日条によると日根野六郎左衛門、弥次右衛門、半左衛門、勘右衛門、五右衛門が安土城城下町の建設に携わっている[10]。弘就の父・日根野九郎左衛門尉が美濃国に移住した時期は、和泉国上下守護の細川氏が没落し、守護被官の行松氏も田畠や茶園、屋敷を中氏根来寺成真院に売却した天文年間後期から十河一存岸和田城に入城した永禄3年(1560年)11月21日以前であると考えられる[11][12]。同時期に摂河泉から美濃国に向かった人物として、天文13年(1544年)に斎藤利政の客将として加納口の戦いに参戦している木沢左馬允がいる[13]

一方、弘就の伯父・又五郎景宗は嫡流として日根野荘佐野湊(現在の大阪府泉佐野市湊)に住み、

と続いた。城は中ノ庄村にあり、菩提寺は同村の浄土宗大光寺であった[14]

一次史料に見える日根野氏の人物

「日根文書」

系図

脚注

注釈

  1. ^ 天福元年五月賜政所御下女了、下司広実公文誓願等封庄庫追出預所代、依令荒廃庄内、被補盛実之子細被裁下之了
  2. ^ 宝治二年五月賜御下文了
  3. ^ 正嘉三年二月賜御下文了、弘長二年二月、文永元年六月、重両度御下文、可任代々御下文、父浄願譲之由所被裁下也
  4. ^ 依代々政所下文且可任文書之旨由 被裁下之
  5. ^ 弘安七年十二月、正応元年十月、同三年五月、同四年六月、正安三年人月、嘉元元年十月、已上六ヶ度氏女成賜政所御下文了、致雅教熬縮摂録認日謀訴之間、被経重々御沙法、氏女毎度所蒙裁許也、天福元年盛実補任以後七十余歳、五代相伝、当知行、于今中無相違者也、仍下総左衛門尉中原盛治為一族之上、依為養子件所職等讓与之畢、文永四年十二月被賜御下女了
  6. ^ 正中二年正月ニ盛治今者出家法名道悟譲賜之畢仍代々政所御下女以下証文等明白也
  7. ^ 貞和二年十一月二郎法師丸今者日根野次郎時盛讓賜之畢次第証文等在之
  8. ^ 『実躬卿記』によると検非違使徳治元年(1306年)8月27日には後宇多上皇東大寺行幸に参向している。同年10月12日には御後官人として活動が確認できる。
  9. ^ 天文2年(1533年)5月28日に大窪村辻垣内の屋敷地を売却している[15]

出典

  1. ^ a b 財団法人 大阪府文化財調査研究センター「日根野遺跡[1]」(財団法人 大阪府文化財調査研究センター、1996年)
  2. ^ a b c d 泉佐野市『新修泉佐野市史』(清文堂、2008年)
  3. ^ 『寛永諸家系図伝』
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  5. ^ 泉佐野市『泉佐野何でも百科』(泉佐野市役所、1994年)
  6. ^ 泉佐野市「日根荘遺跡[2]
  7. ^ 柴田実『泉佐野市史』(泉佐野市、1958年)
  8. ^ 日根神社ご祭神”. 2024年10月26日閲覧。
  9. ^ 柴田実編『泉佐野市史』(大阪府泉佐野市役所、1958年)
  10. ^ 井上幸治『図説日本の歴史 9』(集英社、1975年)
  11. ^ 村井祐樹「三好にまつわる諸々事ー「戦国遺文三好氏編」よりー」
  12. ^ 藤田達生「兵農分離と中世売券」『新しい歴史学のために』206号(京都民科歴史部会、1992年)
  13. ^ 横山住雄「土岐次郎 永禄濃尾考<2>」『郷土文化 25(1)(97)』(名古屋郷土文化会、1970年)
  14. ^ 古川町『古川町史 史料編 1[3]』(古川町、1982年)
  15. ^ 熊取町教育委員会『和泉国日根郡熊取谷中家文書目録』(熊取町教育委員会、1987年)



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