諏訪家の出自と略史とは? わかりやすく解説

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諏訪家の出自と略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 12:45 UTC 版)

高島藩主諏訪家墓所」の記事における「諏訪家の出自と略史」の解説

諏訪氏は、諏訪神社上社大祝(おおほうり、神職最高位)を代々務めた家柄である。同氏鎌倉時代には執権北条氏得宗被官となり、室町時代には信濃の国領主であった天文11年1542年)、武田晴信信玄)が諏訪侵攻し諏訪家惣領家当主であった諏訪頼重自害追い込まれた。その結果諏訪武田氏重臣板垣信方城代として支配するところとなる。天正10年1582年)、晴信の子武田勝頼織田信長による甲州征伐滅ぼされ同年本能寺の変信長自害追い込まれる武田氏滅亡本能寺の変を受け、頼重従弟叔父の子)で諏訪大祝諏訪頼忠諏訪氏頭領となり、諏訪旧地取り戻す。諏訪家徳川方についたことから、徳川家康天正11年1583年)、諏訪家対し諏訪旧領安堵した天正18年1590年)、豊臣秀吉小田原征伐後北条氏を滅ぼす。北条氏滅亡後関東へは徳川家康転封される。家康国替えにともない徳川譜代であった諏訪頼忠関東移されることになり、はじめ武蔵国奈良梨埼玉県小川町)へ、後に上野国惣社群馬県前橋市)へ所領移された。諏訪の地は代わって日根野高吉支配することとなったこの間文禄3年1594年)頃に頼忠は子の諏訪頼水家督譲っている。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い経て慶長6年1601年)、頼上州から諏訪戻り高島藩初代藩主となった居城日根野氏の築いた高島城用いた以後幕末に至るまで、諏訪家高島藩主の地位にあった。 「諏訪氏#歴史」も参照

※この「諏訪家の出自と略史」の解説は、「高島藩主諏訪家墓所」の解説の一部です。
「諏訪家の出自と略史」を含む「高島藩主諏訪家墓所」の記事については、「高島藩主諏訪家墓所」の概要を参照ください。

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