諏訪大社上社との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 22:27 UTC 版)
近年諏訪上社の神体山とされるが、もともと諏訪明神(建御名方神)の神体は諏訪氏出の大祝であり、歴史的に守屋山を神体とした記録はない。それどころか、山頂の石祠には御柱がなく、諏訪に背を向けている。ただし、宝治3年(1249年)に書かれたといわれる『諏訪信重解状』には、諏訪明神が守屋山の麓に降臨して、この地を治めていた守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした後、上社を構えたという伝承が書かれているため、必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない。 天正10年(1582年)3月、織田信忠の軍勢が上社を焼き討ちした時、神官たちが神輿を担ぎ出し守屋山へ避難したと言われている。この事跡に関係する地名(御輿坂、権祝昼飯場など)が山中に残っている。 寛政12年(1800年)、白銅製の八稜鏡が山に発見され、天正の兵乱の際に紛失した宝物だろうということで上社に寄進された。この鏡は現在は上社本宮の宝物殿に収蔵されている。 御柱祭の時に建て替えられる2つの宝殿の網代天井の一部には、山中の一角に生えている「穂無し萱」が古くから使用されている。
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