柴田勝家兜埋納伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:44 UTC 版)
天明5年(1785年)、柴田家当主の柴田勝房(勝重を初代とすれば、第8代当主にあたる)は、家祖勝重が葬られた春清寺に、新たに作った柴田勝家の位牌を奉納するとともに、勝家・勝政・勝重3代の事績を記した文書を添えた(春清寺では「柴田家先祖書」と呼んでおり、「柴田勝家位牌奉安添状」とも呼称される)。寛政8年(1796年)に春清寺に建てられた石碑「柴田家家碑」にもこれと同様の文言が含まれている。 柴田勝房が奉納した「先祖書」は、以下のような内容を含んでいる。 勝政は勝家と日根野氏の女性との間に生まれた実子であるが、賤ケ岳の戦いで戦死した。勝政の遺児(勝重)は北ノ庄落城当時3歳であったが、従者秋元某の手によって上野国にいた日根野氏のもとに匿われて成人し、日根野氏から田地を分け与えられた。徳川家康は、大坂の陣に従軍した勝重が桜門で戦功を挙げたことを知り、勝重に武蔵国仙川郷の領地を加増した。勝重はこの地に勝家の兜を祀り、これが勝淵明神の起こりである。 近世には「勝淵明神」と呼ばれていた勝淵神社(現在の三鷹市新川)は上仙川村の鎮守であった神社である。発祥は不明であるが、隣接する丸池(古くは「勝ヶ淵」と呼ばれた)に関連する水神であったと考えられる。「勝淵神社で柴田勝家の兜を祀っている」伝説の記録史料は少なく、この勝房の「先祖書」が初出である。この時期に勝淵神社と柴田勝家の兜を結びつける伝承が地域で知られるようになっていたようである。文政11年(1828年)に幕府が編纂した『新編武蔵国風土記稿』の記述は、もともと水神を祀っていた場所に勝家の兜を納めてその霊を祀っているという理解と見られ、伝承が地域で定着していることが窺える。文政3年(1820年)に植田孟縉が記した『武蔵名勝図会』の稿本には、柴田勝家の兜を「埋納した」という記述が現れており、19世紀初めに「柴田勝家兜埋納伝承」が成立したものとみられる。 19世紀の伝承の展開は不明であるが、近代の勝淵神社には「兜塚」があり、武運長久を祈願した「戦争絵馬」が奉納されるなど、「武神」としての性格のある柴田勝家に対する信仰が盛んであったようである。昭和10年代には「兜塚には黄金の兜が埋められているから、掘ると目が潰れる」と子供の間でも語られていた。第二次世界大戦後は住民と神社の関係も薄れ、兜塚も荒廃するに任されていたが、1988年(昭和63年)に同神社氏子会によって兜塚が再興された。 勝淵神社境域は、三鷹市教育委員会による文化財調査を経、旧上仙川村の鎮守として地域の信仰を集め祭礼の場となってきたこと、「柴田勝家の兜を埋めたという著名な伝承地」であることなどを理由として、2012年6月6日付で「柴田勝家兜埋納伝承地」として三鷹市の史跡に登録された。 なお、柴田家が領地を移された三河国にも、勝淵神社(現在の愛知県岡崎市福岡町字屋敷)が移されている。岡崎の勝淵神社には兜の諸が納められていると伝承されている。
※この「柴田勝家兜埋納伝承」の解説は、「柴田勝重」の解説の一部です。
「柴田勝家兜埋納伝承」を含む「柴田勝重」の記事については、「柴田勝重」の概要を参照ください。
- 柴田勝家兜埋納伝承のページへのリンク