外国への影響とは? わかりやすく解説

外国への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)

三国志演義の成立史」の記事における「外国への影響」の解説

演義』は『水滸伝』や『西遊記』など後続白話小説とは大きく異なり、ほとんどが文言文語表現)で書かれている日本など漢字文化圏諸国では、古来から漢文文言文法確立しており、いわば国際公用語として広く行き渡っていたため、文言主体書かれた『演義』の理解は容易で、各国抵抗なく受容された。 古くから訓読法が確立していた日本でも林羅山早くも慶長1604年)までに『通俗演義三国志』を読了したといい、元和2年1616年)には徳川家康駿府御譲本の内にも『演義』が見られるなど、明刊本早くから流入している。和文翻訳江戸時代前期元禄2年1689年)とかなり早い段階湖南文山作成した一方口語表現である白話唐話)は、長崎の唐通詞のほかは荻生徂徠など一部好事家のみにしか普及しておらず、白話小説翻訳遅れた。『水滸伝』は岡島冠山の訳が享保13年1729年)に出たものの、これは訓点施したのみで今日的基準では翻訳とは言えず、誰でも読める通俗忠義水滸伝』の完成寛政2年1790年)と『演義』より1世紀遅れ、『西遊記』至って宝暦8年1758年)の『通俗西遊記』で西田維則が翻訳開始したが、完成はさらに半世紀後の天保8年1837年)の『画本西遊全伝』を待たなければならなかった。このことからも『演義』が他の通俗小説とは異なり文言主体であったことが分かるまた、話の筋こそ『演義』とはあまり関係がないが、元文2年1737年)には江戸で二代目市川團十郎主演による『関羽』という歌舞伎の演目初演されており(のちに市川家歌舞伎十八番選定される)、庶民レベルまで三国英雄の名が定着していたことがうかがえる(その他、詳細三国志#日本における三国志受容流行参照)。 李氏朝鮮でも、金万重1637年 - 1692年)の『西浦漫筆』には「『三国演義』は元人の羅貫中から出たもので、壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも流行した」との記述があり、明刊本早い時期から流入していたことが分かる宣祖王(在位1567年 - 1608年)が長坂の戦いにおいて張飛一喝敵軍逃げ去ったという記事があると言及し、それに対し朱子学者の奇高峰が、『演義』は史書異なり虚構が多いと返答したという。その後多く刊本印刷されついには演義』が科挙出題にも使われたほどだという(李瀷『星湖僿説』巻9上「三国衍義」)。1703年には朝鮮語訳発刊された。 ベトナムでも後黎朝後期には毛宗崗本系の『第一才子書』が伝えられたと思われ文人政治家レ・クイ・ドン(黎貴惇、1726年 - 1783年)が『芸台類語』(1777年)に『演義』や羅貫中について論評しているほか、フエには関公祠が設けられていたという(ただしこれらは漢文としての受容留まりベトナム語訳の出版20世紀まで遅れる)。18世紀末には『演義』の影響を受け、呉兄弟による『皇黎一統志』などベトナム独自の演義小説まで生まれている。 タイではチャクリー朝成立後1802年頃にラーマ1世による王命により、チャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が完成。後のタイ文学大きな影響与えている。ラーマ1世没後中国書翻訳プロジェクト進められラーマ2世期の『東周列国志(リエットコック)』をはじめ、多く通俗小説タイ語訳された。

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外国への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:39 UTC 版)

フィンランドの建築」の記事における「外国への影響」の解説

フィンランドの建築家、特にアルヴァ・アールトフィンランド以外でも影響力発揮したポルトガル著名な建築家アルヴァロ・シザ・ヴィエイラ、イギリスの建築家コリン・シンジョン・ウィルソン(英語版)、アメリカの建築リチャード・マイヤーロバート・ヴェンチューリスティーヴン・ホールはいずれその作品アールト影響受けた表明している。中でもホールアールト建築の隣に自分建築建てる機会2度あり、1回目アールトフィンランディア・ホール建てられヘルシンキ現代美術館コンペにも優勝したキアズマ1993年-1998年建築)で、2回目マサチューセッツ工科大学のベイカー・ハウス(Baker House1947年-1949年建築アールト設計)の向こう側建てられたシモンズ・ホール(Simmons Hall2002年建築)である。アールト以前ではエリエル・サーリネン1922年のシカゴトリビューン・タワー(英語版)のコンペ2位獲得したあと、1923年アメリカに移住したことで外国への影響を発揮し始めた。彼はミシガン州クランブルック美術アカデミー設計した彼の息子エーロ・サーリネンは「アメリカの世紀建築家」(Architect of the American Century)と呼ばれることも多くフィンランド生まれだったもののアメリカで教育受けて育ちアメリカ国内多く建築残した。例としてはニューヨークジョン・F・ケネディ国際空港でのTWAフライトセンターセントルイスジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルゲートウェイ・アーチなどがあるが、それぞれ背景設計目的によってスタイル違った。彼は自身の有名さを利用して設計選択するときに自身設計似ているものを選ぶよう影響力発揮したため、シドニー・オペラハウスコンペヨーン・ウツソン設計選ばれ、トロント・シティホール(英語版)のコンペでヴィルヨ・レヴェル(英語版)の設計選ばれた。ほかにもサイリル・マーダル(Cyril Mardall、原名キュリル・シヨストロム(Einar Sjöström)、建築家エイナル・シヨストロム(フィンランド語版)の息子)がイングランド移転した後、F・R・Sヨーク英語版)とユージン・ローセンベルク(英語版)とパートナーシップ組んで建築会社ヨーク・ローセンベルク・マーダル(英語版)(YRM)を結成して成功収めたマーダルフィンランド学んだプリハブの木製家屋専門家としてスティーブニッジハーロウニュータウンでの住宅建設取り組み、また1958年にはロンドンのフィンランド・ルター派宣教教会設計にも関与した。 さらに近年では実際建築のほかにも建築理論影響力発揮しており、これはフィンランドの建築家と理論家ユハニ・パルラスマいくつかの言語精力的に著作出版していることによるところが大きい。彼は2012年の『皮膚にある眼、建築感覚』と『建築への理解』、2009年の『考える手』などを出版している。ほかにもフィンランドの建築理論家カリ・ヨルマッカ(英語版)が2012年の『見えない目』、1995年の『ハイムリック法 - 建築における儀式』、2007年の『基本設計法』などを出版している。

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外国への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:23 UTC 版)

フランス語憲章」の記事における「外国への影響」の解説

この憲章は、少数言語他地域にも影響もたらした例えば、イギリスウェールズで、1993年成立しウェールズ語を英語と同等に扱うようにしたウェールズ言語法や、スペインカタルーニャ自治州におけるカタルーニャ語扱いに関してなどである。ウェールズでは、二言語で行われるウェールズ議会成立にも影響があったといわれている。

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