外国への影響
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『演義』は『水滸伝』や『西遊記』など後続の白話小説とは大きく異なり、ほとんどが文言(文語表現)で書かれている。日本など漢字文化圏諸国では、古来から漢文(文言)文法が確立しており、いわば国際公用語として広く行き渡っていたため、文言主体で書かれた『演義』の理解は容易で、各国に抵抗なく受容された。 古くから訓読法が確立していた日本でも、林羅山が早くも慶長(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了したといい、元和2年(1616年)には徳川家康の駿府御譲本の内にも『演義』が見られるなど、明刊本が早くから流入している。和文翻訳も江戸時代前期の元禄2年(1689年)とかなり早い段階で湖南文山が作成した。一方、口語表現である白話(唐話)は、長崎の唐通詞のほかは荻生徂徠など一部の好事家のみにしか普及しておらず、白話小説の翻訳は遅れた。『水滸伝』は岡島冠山の訳が享保13年(1729年)に出たものの、これは訓点を施したのみで今日的な基準では翻訳とは言えず、誰でも読める『通俗忠義水滸伝』の完成は寛政2年(1790年)と『演義』より1世紀遅れ、『西遊記』に至っては宝暦8年(1758年)の『通俗西遊記』で西田維則が翻訳を開始したが、完成はさらに半世紀後の天保8年(1837年)の『画本西遊全伝』を待たなければならなかった。このことからも『演義』が他の通俗小説とは異なり、文言主体であったことが分かる。また、話の筋こそ『演義』とはあまり関係がないが、元文2年(1737年)には江戸で、二代目市川團十郎主演による『関羽』という歌舞伎の演目が初演されており(のちに市川家歌舞伎十八番に選定される)、庶民レベルまで三国の英雄の名が定着していたことがうかがえる(その他、詳細は三国志#日本における三国志の受容と流行を参照)。 李氏朝鮮でも、金万重(1637年 - 1692年)の『西浦漫筆』には「『三国演義』は元人の羅貫中から出たもので、壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも流行した」との記述があり、明刊本が早い時期から流入していたことが分かる。宣祖王(在位1567年 - 1608年)が長坂の戦いにおいて張飛の一喝で敵軍が逃げ去ったという記事があると言及し、それに対し朱子学者の奇高峰が、『演義』は史書と異なり虚構が多いと返答したという。その後多くの刊本が印刷され、ついには『演義』が科挙の出題にも使われたほどだという(李瀷『星湖僿説』巻9上「三国衍義」)。1703年には朝鮮語訳が発刊された。 ベトナムでも後黎朝後期には毛宗崗本系の『第一才子書』が伝えられたと思われ、文人政治家レ・クイ・ドン(黎貴惇、1726年 - 1783年)が『芸台類語』(1777年)に『演義』や羅貫中について論評しているほか、フエには関公祠が設けられていたという(ただしこれらは漢文としての受容に留まり、ベトナム語訳の出版は20世紀まで遅れる)。18世紀末には『演義』の影響を受け、呉兄弟による『皇黎一統志』などベトナム独自の演義小説まで生まれている。 タイではチャクリー朝成立後の1802年頃にラーマ1世による王命により、チャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が完成。後のタイ文学に大きな影響を与えている。ラーマ1世没後も中国書の翻訳プロジェクトは進められ、ラーマ2世期の『東周列国志(リエットコック)』をはじめ、多くの通俗小説がタイ語訳された。
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外国への影響
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フィンランドの建築家、特にアルヴァ・アールトはフィンランド以外でも影響力を発揮した。ポルトガルの著名な建築家アルヴァロ・シザ・ヴィエイラ、イギリスの建築家コリン・シンジョン・ウィルソン(英語版)、アメリカの建築家リチャード・マイヤー、ロバート・ヴェンチューリ、スティーヴン・ホールはいずれもその作品がアールトの影響を受けたと表明している。中でもホールはアールトの建築の隣に自分の建築を建てる機会が2度あり、1回目はアールトのフィンランディア・ホールに建てられ、ヘルシンキ現代美術館のコンペにも優勝したキアズマ(1993年-1998年建築)で、2回目はマサチューセッツ工科大学のベイカー・ハウス(Baker House、1947年-1949年建築、アールト設計)の向こう側に建てられたシモンズ・ホール(Simmons Hall、2002年建築)である。アールト以前ではエリエル・サーリネンが1922年のシカゴトリビューン・タワー(英語版)のコンペで2位を獲得したあと、1923年にアメリカに移住したことで外国への影響を発揮し始めた。彼はミシガン州のクランブルック美術アカデミーを設計した。彼の息子エーロ・サーリネンは「アメリカの世紀の建築家」(Architect of the American Century)と呼ばれることも多く、フィンランド生まれだったもののアメリカで教育を受けて育ち、アメリカ国内で多くの建築を残した。例としてはニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港でのTWAフライトセンターやセントルイスのジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルのゲートウェイ・アーチなどがあるが、それぞれ背景や設計目的によってスタイルが違った。彼は自身の有名さを利用して設計を選択するときに自身の設計と似ているものを選ぶよう影響力を発揮したため、シドニー・オペラハウスのコンペでヨーン・ウツソンの設計が選ばれ、トロント・シティホール(英語版)のコンペでヴィルヨ・レヴェル(英語版)の設計が選ばれた。ほかにもサイリル・マーダル(Cyril Mardall、原名キュリル・シヨストロム(Einar Sjöström)、建築家エイナル・シヨストロム(フィンランド語版)の息子)がイングランドに移転した後、F・R・S・ヨーク(英語版)とユージン・ローセンベルク(英語版)とパートナーシップを組んで建築会社ヨーク・ローセンベルク・マーダル(英語版)(YRM)を結成して成功を収めた。マーダルはフィンランドで学んだプリハブの木製家屋の専門家として、スティーブニッジとハーロウのニュータウンでの住宅建設に取り組み、また1958年にはロンドンのフィンランド・ルター派宣教教会の設計にも関与した。 さらに近年では実際の建築のほかにも建築理論で影響力を発揮しており、これはフィンランドの建築家と理論家ユハニ・パルラスマがいくつかの言語で精力的に著作を出版していることによるところが大きい。彼は2012年の『皮膚にある眼、建築と感覚』と『建築への理解』、2009年の『考える手』などを出版している。ほかにもフィンランドの建築理論家カリ・ヨルマッカ(英語版)が2012年の『見えない目』、1995年の『ハイムリック法 - 建築における儀式』、2007年の『基本設計法』などを出版している。
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外国への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:23 UTC 版)
この憲章は、少数言語の他地域にも影響をもたらした。例えば、イギリスのウェールズで、1993年に成立し、ウェールズ語を英語と同等に扱うようにしたウェールズ言語法や、スペインのカタルーニャ自治州におけるカタルーニャ語の扱いに関してなどである。ウェールズでは、二言語で行われるウェールズ議会の成立にも影響があったといわれている。
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