後黎朝後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:20 UTC 版)
「南北朝時代 (ベトナム)」、「鄭主」、「広南国」、および「西山朝」も参照 莫登庸により黎朝は滅亡したが、黎朝の旧臣であった阮淦は1532年に黎寧(荘宗)を擁立して反莫運動を展開、翌年には黎寧を皇帝に即位させ黎朝の再興を唱えた。武力による莫朝との対立以外にも、明朝へ鄭惟憭を遣使し、黎寧のベトナムにおける正統性の承認を求めるとともに、簒奪者である莫登庸への問罪を求めている。 後期黎朝の実権は阮淦が掌握していたが、莫朝の降臣に暗殺され、娘婿の鄭検が跡を継いだ。これ以降、黎朝の実権を掌握する鄭氏と莫氏との間で内戦が続いた。1592年、鄭検の子である鄭松が実権を掌握すると間もなく、ハノイを奪取した鄭松は莫朝の君主である莫茂洽を殺害、ここに黎朝の再興(後期黎朝)が実現した。 しかし後期黎朝は黎氏の帝位こそ回復したものの、その実権は鄭氏の手中にあり、黎朝の皇帝は鄭氏の傀儡と化した。莫黎戦争を通じて黎朝は完全に鄭松により掌握された。1599年には英宗を殺害し、その第5子である世宗を擁立して自らは平安王となり、世宗が死去すると敬宗を擁立するも、1619年にはこれを殺害し神宗を擁立している。また鄭松の後継者である鄭梉は南明から副王に封じられ、またその子の鄭柞は西王を自称するなど、北部東京(東都、現ハノイ)を拠点として実質的な統治者となっていた。 鄭氏が莫朝と死闘を繰り広げる間、阮淦の子の阮潢は鄭検から身を守るため、当時辺境だった順化(現クアンビン省~トゥアティエン・フエ省)・広南(現クアンナム省・ダナン以南)の地方長官として赴任した。以降、富春(現フエ)を拠点に現在の中部ベトナムで地歩を固めて半独立政権(広南国)を作り上げたが、1592年に鄭氏がハノイを攻略した後には一門を率いて北上、莫氏残党鎮圧に活躍するなど、鄭氏と表だって対立することはなかった。阮潢が没し、その子の阮福源の代になると、鄭氏と広南阮氏との関係は急速に悪化した。17世紀を通じて両者は7度にわたって激突した(鄭阮戦争)が、決着を見ることなく休戦状態に入った。 1771年に南方を支配していた阮氏に対する西山の乱が発生、阮氏勢力が滅ぼされると、黎帝の実権回復を唱えるその軍は、一族内の内訌により政情が動揺していた鄭氏討伐に向かい、1786年に鄭氏勢力を滅亡させた。なおもハノイで虚位を保持していた昭統帝は1788年、西山朝の影響力を排除しようと、清朝の援軍を得て反撃に出たが、阮恵率いる軍にドンダーの戦いで敗れて清に亡命、これにより黎朝は滅亡した。
※この「後黎朝後期」の解説は、「黎朝」の解説の一部です。
「後黎朝後期」を含む「黎朝」の記事については、「黎朝」の概要を参照ください。
- 後黎朝後期のページへのリンク