徐々に強まる欧米諸国からの外圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「徐々に強まる欧米諸国からの外圧」の解説
19世紀に入ると、イギリス、アメリカ合衆国といった欧米諸国の船舶がしばしば琉球を訪れるようになった。これは漂流してたまたま琉球に流れついたというわけではなく、意図的な琉球訪問であった。それでも19世紀前半期は、琉球当局はあえて欧米船の来訪を清側に伝えることはせず、その一方で日本側の異国船対応の幕命とされていた無二念打払令に従って強制退去を行うこともせず、丁寧な応対を心がけて退去を待つ方針に徹し、それで事態をやり過ごすことが出来ていた。 1832年、イギリス船のアマースト号が清当局の制止を再三振り切り、中国沿岸の測量を続け、その後朝鮮と琉球にも立ち寄った。清の道光帝はアマースト号の福州停泊時には、福州は琉球しか寄港を許しておらず、アマースト号の停泊は許すべきではないが、無理に追い出すことはせず船の修理を終えたら速やかに離港させるように命じている。アマースト号側は清、朝鮮そして琉球に対して通商を要求したが、ともに通商の要求は拒絶した。琉球に寄港したアマースト号の通商要求はさほど強硬なものではなく、琉球側の通商拒絶の回答を受け取った後に退去している。またアマースト号は那覇港で日本船を目撃し、日本人の船員とも接触していた。対欧米諸国との関係において日琉関係の隠蔽は最初から上手く機能しておらず、琉球の体制維持にとって大きな支障となっていく。 1840年にはアヘン戦争が始まる。戦後の講和交渉で大きな問題となったのが福州の開港問題であった。清の道光帝は広州、厦門、寧波、上海の開港については了承したものの、福州については冊封国である琉球船が入港する港であるとして開港を拒んだ。しかしイギリス側は福州が茶の集積地であることと、もともと琉球との貿易拠点であることを挙げて強硬に開港を要求し、一方で天津開港要求もちらつかせた。結局、対琉球関係に悪影響を与えかねないデメリットはあるものの、首都北京に近い天津を開港するよりは受け入れやすいということで、1842年に締結された南京条約において、やむなく福州開港を認めることになった。
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