後黎朝前期とは? わかりやすく解説

後黎朝前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:20 UTC 版)

黎朝」の記事における「後黎朝前期」の解説

15世紀初頭に明はベトナム支配下置いていたが(第四次北属時期英語版)、1407年 - 1427年)、これに対し清化地方丘陵部小首黎利ムオン族との説もある)が挙兵した。長期ゲリラ戦経て明の勢力国外へ放逐し1428年現在のハノイ皇帝即位国号を「大越」とした(ただし李朝陳朝胡朝と、ベトナム歴代使われてきた国号同じよう使用したに過ぎない)。 黎利皇族冷遇して皇帝独裁体制築こうとした。しかし彼の死後政権中枢黎利とともに対明戦に従事した開国功臣(ほとんどが清化出身)によって占められた。開国功臣歴代皇帝や彼ら相互に婚姻関係を結び、地方多く領地有する軍事貴族として政権主導した前期黎朝歴史開国功臣(とその子孫)間の権力闘争帝位継承争い結びつく形で推移した内政面では国内五道分け、その下を府県社分割し地方行政制度整備すると共に国子監などの教育面充実とそれに伴う官吏養成制度定め土地台帳戸籍整備し公田分配制度定めるなど、建国初期諸政策を実行している。 1434年黎利崩御すると、その次子である太宗即位した即位時に僅か11歳ということもあり、当初黎察という人物摂政当たっていたが、成人するとこれを退け親政開始した。また太宗時代より科挙制度確立し1442年にははじめての進士合格者登用している。 1443年仁宗が僅か2歳即位すると、このころより黎朝チャンパ王国占城)との紛争続いたチャンパとの戦いの中でチャンパ王マハーブシャを捕虜にするなど、軍事的に充実した時期迎えた。しかし生母楊氏太宗寵愛失い即位できなかったことを恨んだ黎宜民仁宗異母兄)が、1459年宮城侵入仁宗とその生母黎氏を殺害して自ら帝位即くという事件が発生した。ここに黎朝朝廷混乱生じたが、1460年には阮熾や丁列などの勢力黎宜民廃し太宗の第4子である聖宗擁立している。 聖宗時代は明との友好関係維持されたのに対しチャンパとの対立深まった時代である。1470年チャンパ15王朝第2代王であるバン・ラチャトアンが化州侵攻、これに対し聖宗25軍勢による親征実施en:1471 Vietnamese invasion of Champa)、チャンパ首都であるヴィジャヤ英語版)を攻略、ラチャトアンを捕虜にし、チャンパ王朝を隷属させることに成功している。この他ラオス存在したランサーンの攻略行いその他律令制度の整備などによって繁栄迎えた聖宗抗争疲弊した開国功臣勢力と自らが取り立てた科挙官僚群とのバランスの上立って主導権回復維持した。しかしその繁栄続かず次代憲宗早世し、その子である粛宗威穆帝相次いで即位したが、国勢衰微へと辿り続けた。 特に威穆帝暴虐ぶりは明使である許天錫から「鬼王」と記録されるほどであり、この事態1509年従弟の黎晭を中心とするクーデター発生し、黎晭は襄翼帝ベトナム語版)として即位した。しかし襄翼帝即位後は享楽にふけり、宗室殺害するなどの暴虐尽くしたことから反乱続発1516年殺害され続いて昭宗ベトナム語版)が即位することとなった。 この時期になると朝廷内の権臣私兵を以て抗争繰り広げるようになった。この状況下、昭宗海陽出身武人莫登庸(マク・ダン・ズン、Mạc Đăng Dung)に朝廷軍指揮委ねると、莫登庸専横強まり、その専横身の危険感じた昭宗宮城脱出西京清化)の鄭綏の下に身を寄せた莫登庸昭宗追跡軍勢差し向ける同時に昭宗の弟恭皇を擁立した。こうして恭皇を推す莫登庸と、昭宗推す鄭綏の間での抗争となった。この抗争莫登庸有利に戦い進め1525年には昭宗軟禁して1527年にこれを殺害するとともに、恭皇に禅譲迫り、ここに黎朝滅亡した

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