堂内の諸仏とは? わかりやすく解説

堂内の諸仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 20:26 UTC 版)

三十三間堂」の記事における「堂内の諸仏」の解説

この節には、JIS X 0213:2004規定されている文字(足枘台座等ニ建長の2文字目、鈸子の1文字目、摩睺羅(「ご」は目偏に「侯」)の2文字目)が含まれています(詳細)。 堂内中央鎌倉時代仏師湛慶作の本尊千手観音坐像安置本尊左右に長大階段状の仏壇があり、左右仏壇に各500体(50X10段)の千手観音立像立ち並ぶ千手観音立像本尊背後にもう1体あり、計1,001体となる。1,001体のうちの一部の像は東京京都・奈良国立博物館寄託されていたが、2018年平成30年)には、国宝指定記念して博物館寄託の像が堂に戻り、1,001体が勢ぞろいした。 1937年昭和12年)から20年計画責任者新納忠之介中心に全1,001体の修理が行われた。1973年昭和48年)から美術院国宝修理所によって全1,001体の修理開始され45年後の2017年平成29年12月に全1,001体の修理完了した千体仏の手前に二十八部衆28体が横一列並び内陣左右端には風神・雷神像を安置する(ただし、二十八部衆像のうち4体は本尊周囲配置されている)。2018年平成30年7月に以上30体の仏像配置変更され鎌倉時代版画など古記録研究基づいて創建当時と同じと思われる配置戻された。内陣左右両端には、拝観者から見て向かって左南側)に雷神像、右(北側)に風神像が安置されているが、2018年平成30年7月以前は、1934年昭和9年)頃の修理に伴い雷神風神位置が逆であった二十八部衆像については、配置変更のほか、像名にも一部変更がある。 千手観音坐像中尊) 「木造千手観音坐像 附 木天蓋」として国宝指定されている。寄木造漆箔玉眼十一四十二臂に表す通有千手観音像である。像本体の高さは334.8センチ台座光背含めた全体の高さは7メートル超える台座心棒墨書から、作者大仏師法印湛慶小仏師法康円および小仏師法眼康清であり、建長3年1251年)に造り始め、同6年1254年)に完成したことがわかる。湛慶の名の後に「生年八十二」とあり、湛慶がこの時82であったこと、生年逆算して承安3年1173年であったことがわかる。この銘記慶安4年1651年)の修理時に書かれたものであるが、像内の腰のあたりにある仕切り板朱書された造像当初銘記現状では剥落多く全文不明)を忠実に写したものと考えられている。本像は保存状態がよく、後世補作されることの多い台座光背天蓋も、本像の場合当初のものが残っている。光背宝相華文透彫の上に、観音三十応現身を表したのである三十応現身とは、『法華経観世音菩薩普門品説くもので、観音衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。 千手観音立像(1,001躯) 「木造千手観音立像1,001躯」として国宝指定されている(2018年度指定))。寄木造または割矧ぎ造、漆箔像高166 - 167cm前後千手観音立像には1体ずつ番号振られており、堂内南端本尊向かって左端)の最上段が1号像、南端最下段10号像、堂内北端本尊向かって右端)の最上段が991号像、北端最下段が1,000号像、本尊背後に立つ1体が1,001号像である。昭和戦前期には、南側から入堂北側抜け拝観順路であったため、南から北へ番号振られている。 1,001体のうち、建長元年1249年)の火災の際に救い出された、創建時平安時代の像(長寛仏)は124体、再建時(鎌倉時代)の像は876体あり、他に室町時代追加された像が1体のみ(32号像)ある。玉眼眼の部分水晶使用する)を嵌入する像は5体のみ(78号、80号、120号、169号、459号)で、他は彫眼である。 平安時代の像には銘記はない。鎌倉時代復興像は2006年平成18年時点504体について銘記確認されており、当時奈良仏師慶派)、京都仏師円派院派)の主要仏師造像動員されている。創建時の像(長寛仏)のうち、拝観者の目につきやす最前列最下段)に安置されるのは、160号、280号、300号、440号、450号、570号、670号、800号、890号の9体である。湛慶作の像は10号20号30号40号、520号、530号540号、550号、560号の9体で、いずれも堂内最前列安置されている。その他の主要仏師の作は以下のとおり慶派 - 康円50号像など6体)、行快490号像1体のみ)円派 - 隆円500号像など35体)、昌円(6体)、栄円(5体)、勢円(8体)院派 - 院継(400号像など14体)、院遍(7体)、院承(30体)、院恵(30体)、院豪(28体)、院賀(11体) 510号像には「運慶」の銘記があるが、これは後世偽銘考えられている。平安時代の像(長寛仏)は定朝様式を受け継ぐ作風を示す。すなわち、全体太造りで、体部に厚みがあり、合掌し両腕張りがゆったりとし、面相丸顔伏し目がちである。一方鎌倉時代湛慶作品は、長寛仏の作風受け継ぎつつ、衣文線を左右非対称として変化をつけるなどの相違みられる。 各像の内部には像内納入品がある。主要な納入品は千手観音種子月輪牌(材製)、千手観音および二十八部衆摺仏すりぼとけ)、千手観音陀羅尼などで、摺仏陀羅尼紙片多数折り畳み、これに木牌添えていた。他に阿弥陀如来摺仏願文毛髪などの納入品も確認されている。昭和修理時にこれら納入品の一部取り出されたが、納入状況の確認のみを行って取り出されなかったものも多く全容未詳である。 兵庫県朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂観音像様式一致し、当堂から移されたものと推定されている。 風神雷神像 「木造風神雷神像2躯」として国宝指定されている。鎌倉復興期の作。それぞれ堂内左右端に安置風袋太鼓それぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる寄木造彩色玉眼像高風神が111.5センチ雷神が100.0センチ風神風袋負い、右膝を突き、左膝を立てる。手指は4本、足指は2本である。雷神は連鼓を負い両手それぞれ(ばち)を持ち風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指3本足指は2本である。風神雷神図像中国由来のもので、敦煌莫高窟249窟(西魏6世紀前半)には阿修羅像並んで風神雷神像がみえる。日本における風神雷神彫像としては三十三間堂像が最古のものである二十八部衆像 「木造二十八部衆立像28躯」として国宝指定されている。寄木造彩色玉眼像高最大大梵天王が169.7センチ最少の神母女(旧称・摩和羅女)が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音眷属であり、千手観音信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王金剛力士仁王)のようになじみ深いものと、由来はっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされる。これらの像は本来は本尊像両脇取り囲む群像として安置されいたものであるが、近代になって堂の西裏廊下一列安置されるようになり、20世紀末現在のように千体仏前面配置されるようになった。やせ衰えた老人肉体リアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙(ばすせん)像は28体の中でもよく知られている。 二十八部衆像のうち帝釈天二十八部衆像のうち婆藪仙 千手観音立像1001躯のうち40号像(湛慶作)

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