堂内の諸仏
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この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(足枘台座等ニ建長の2文字目、鈸子の1文字目、摩睺羅(「ご」は目偏に「侯」)の2文字目)が含まれています(詳細)。 堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊千手観音坐像を安置。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体となる。1,001体のうちの一部の像は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されていたが、2018年(平成30年)には、国宝指定を記念して、博物館に寄託の像が堂に戻り、1,001体が勢ぞろいした。 1937年(昭和12年)から20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1,001体の修理が行われた。1973年(昭和48年)から美術院国宝修理所によって全1,001体の修理が開始され、45年後の2017年(平成29年)12月に全1,001体の修理が完了した。 千体仏の手前には二十八部衆像28体が横一列に並び、内陣の左右端には風神・雷神像を安置する(ただし、二十八部衆像のうち4体は本尊の周囲に配置されている)。2018年(平成30年)7月に以上30体の仏像の配置が変更され、鎌倉時代の版画など古記録の研究に基づいて、創建当時と同じと思われる配置に戻された。内陣の左右両端には、拝観者から見て向かって左(南側)に雷神像、右(北側)に風神像が安置されているが、2018年(平成30年)7月以前は、1934年(昭和9年)頃の修理に伴い雷神・風神の位置が逆であった。二十八部衆像については、配置変更のほか、像名にも一部変更がある。 千手観音坐像(中尊) 「木造千手観音坐像 附 木造天蓋」として国宝に指定されている。寄木造、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。台座心棒の墨書から、作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、建長3年(1251年)に造り始め、同6年(1254年)に完成したことがわかる。湛慶の名の後に「生年八十二」とあり、湛慶がこの時82歳であったこと、生年が逆算して承安3年(1173年)であったことがわかる。この銘記は慶安4年(1651年)の修理時に書かれたものであるが、像内の腰のあたりにある仕切り板に朱書された造像当初の銘記(現状では剥落が多く全文は不明)を忠実に写したものと考えられている。本像は保存状態がよく、後世に補作されることの多い台座、光背、天蓋も、本像の場合は当初のものが残っている。光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。三十三応現身とは、『法華経』観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。 千手観音立像(1,001躯) 「木造千手観音立像1,001躯」として国宝に指定されている(2018年度指定))。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。像高は166 - 167cm前後。 千手観音立像には1体ずつ番号が振られており、堂内南端(本尊に向かって左端)の最上段が1号像、南端の最下段が10号像、堂内北端(本尊に向かって右端)の最上段が991号像、北端の最下段が1,000号像、本尊背後に立つ1体が1,001号像である。昭和戦前期には、南側から入堂し北側へ抜ける拝観順路であったため、南から北へと番号が振られている。 1,001体のうち、建長元年(1249年)の火災の際に救い出された、創建時の平安時代の像(長寛仏)は124体、再建時(鎌倉時代)の像は876体あり、他に室町時代に追加された像が1体のみ(32号像)ある。玉眼(眼の部分に水晶を使用する)を嵌入する像は5体のみ(78号、80号、120号、169号、459号)で、他は彫眼である。 平安時代の像には銘記はない。鎌倉時代の復興像は2006年(平成18年)時点、504体について銘記が確認されており、当時の奈良仏師(慶派)、京都仏師(円派、院派)の主要仏師が造像に動員されている。創建時の像(長寛仏)のうち、拝観者の目につきやすい最前列(最下段)に安置されるのは、160号、280号、300号、440号、450号、570号、670号、800号、890号の9体である。湛慶作の像は10号、20号、30号、40号、520号、530号、540号、550号、560号の9体で、いずれも堂内最前列に安置されている。その他の主要仏師の作は以下のとおり。 慶派 - 康円(50号像など6体)、行快(490号像1体のみ)円派 - 隆円(500号像など35体)、昌円(6体)、栄円(5体)、勢円(8体)院派 - 院継(400号像など14体)、院遍(7体)、院承(30体)、院恵(30体)、院豪(28体)、院賀(11体) 510号像には「運慶」の銘記があるが、これは後世の偽銘と考えられている。平安時代の像(長寛仏)は定朝様式を受け継ぐ作風を示す。すなわち、全体に太造りで、体部に厚みがあり、合掌した両腕の張りがゆったりとし、面相は丸顔で伏し目がちである。一方、鎌倉時代の湛慶の作品は、長寛仏の作風を受け継ぎつつ、衣文線を左右非対称として変化をつけるなどの相違がみられる。 各像の内部には像内納入品がある。主要な納入品は千手観音種子月輪牌(檜材製)、千手観音および二十八部衆摺仏(すりぼとけ)、千手観音陀羅尼などで、摺仏や陀羅尼の紙片を多数折り畳み、これに木牌を添えていた。他に阿弥陀如来の摺仏、願文、毛髪などの納入品も確認されている。昭和の修理時にこれら納入品の一部は取り出されたが、納入状況の確認のみを行って、取り出されなかったものも多く、全容は未詳である。 兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。 風神雷神像 「木造風神雷神像2躯」として国宝に指定されている。鎌倉復興期の作。それぞれ堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5センチ、雷神が100.0センチ。風神は風袋を負い、右膝を突き、左膝を立てる。手指は4本、足指は2本である。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴(ばち)を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。風神雷神の図像は中国由来のもので、敦煌莫高窟第249窟(西魏、6世紀前半)には阿修羅像と並んで風神雷神像がみえる。日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである。 二十八部衆像 「木造二十八部衆立像28躯」として国宝に指定されている。寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天王が169.7センチ、最少の神母女(旧称・摩和羅女)が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙(ばすせん)像は28体の中でもよく知られている。 二十八部衆像のうち帝釈天王 二十八部衆像のうち婆藪仙 千手観音立像1001躯のうち40号像(湛慶作)
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