阿修羅像(鈴木研一)
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「大日本仏像連合」の記事における「阿修羅像(鈴木研一)」の解説
ベース、コーラス。人間椅子のメンバー。 顔の左右に作りものの白い顔面を貼り付けて、三面を表現している。
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阿修羅像
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阿修羅像は三面六臂で、他の像と違って甲冑を着けず、上半身は条帛(じょうはく、襷状の布)を着けるのみである。下半身には裙(くん、下半身に巻くスカート風のもの)を着け、足には板金剛というサンダル状のものを履く。合掌する腕の右前膊(肘から先)の半ばから先は後補である。当初は肉身部と裙が赤、条帛が緑青に彩られていたが、現状では褪色している。 1981年から1985年にかけて、財団法人美術院国宝修理所にて本像の模造が制作された。模造の造形は松永忠興、彩色復元は加藤純子が担当している。加藤の調査により、本像の肉身部はもとは鮮やかな朱色であり、裳や条帛には朱色の地に緑青、群青、臙脂、朱で文様が描かれていたことがあらためて確認され、模造では制作当初の色彩が復元されている。 本像の合掌する2本の腕のうち、右腕の前膊部は、前述のとおり、明治時代の補作である。このことに加え、合掌した両掌の位置が正中線からずれていること、曲げた腕のつくる角度が明治時代の古写真と現状とで異なっていることなどから、「阿修羅像は本来は合掌していなかった」「明治時代の修理によって、合掌する形に改変された」とする説が一部にあった。しかし、九州国立博物館などの研究チームによって行われた本像のX線CTスキャン画像の解析の結果、制作当初の本像は現状と同じく合掌していたとみられる。曲げた腕のつくる角度が明治時代と現状とで異なっているのは、明治時代の修理で、像の腋の下の部分に木屎漆(こくそうるし、漆に植物繊維を混ぜてペースト状にしたもの)を用いたことが原因であった。 アスラ(阿修羅)は、もともと古代インドの戦闘神・魔神であり、神々と戦った攻撃的な神であった。阿修羅像の作例として、中国では雲崗石窟第10窟の三面四臂像(北魏、5世紀後半)が最古とされている。著名な作例としては、敦煌莫高窟第249窟壁画(西魏、6世紀後半)中の、日月を捧持して立つ四眼四臂の像がある(以上の作例は一般に阿修羅像とみなされているが、異説もある)。日本では、法隆寺五重塔初層の塑像群(711年作)のうち、北面の涅槃群像のうちに阿修羅像があり、これが日本最古の作例である。この阿修羅像は、釈迦の涅槃に立ち会う群衆の一員として静かな表情に表され、左右の第一手は合掌せずに膝上に置いている。一方、三十三間堂の二十八部衆像のうちの阿修羅像(鎌倉時代作)は眉を吊り上げ、髪を逆立て、開口し怒号する姿に表される。『北野天神縁起絵巻』(承久本、鎌倉時代)や聖衆来迎寺本『六道絵』(鎌倉時代)中に描かれる阿修羅は、赤色身で、弓矢を持って帝釈天らの神々の軍勢と戦う、戦闘神としての姿に表されている。これに対し、興福寺の阿修羅像は少年のような風貌で、わずかに眉をひそめた静かな表情に表され、戦闘神の面影はない。 2009年、東京国立博物館と九州国立博物館にて「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」と題する展覧会が開催され、両館で計165万人以上という空前の入場者数を記録した。阿修羅像は、近代以降、多くの文学者や知識人によってエッセーや評論で言及され、和歌に詠まれてきた。堀辰雄は、1941年10月、当時奈良国立博物館に寄託展示されていた阿修羅像に目を留め、その表情について「何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている」「なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう」と描写している(出典:『大和路・信濃路』)。白洲正子は随筆の中で阿修羅像の表情に言及して「紅顔の美少年が眉をひそめて、何かにあこがれる如く遠くの方をみつめている」といい、6本の腕については「その蜘蛛のように細くて長い六臂の腕も、不自然ではなく、見る人にまつわりつくように色っぽい」と評している(出典: 随筆集『両性具有の美』)。 このように、単独で言及されることの多い阿修羅像であるが、本来は興福寺西金堂に安置されていた、20数体の仏像から構成される釈迦浄土の群像の中の1体である。京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」を見ると、阿修羅像は西金堂本尊釈迦如来像の向かって左後方に立っていた。西金堂の諸仏は、前述のように、『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」に基づき造像されたものである。本来戦闘神である阿修羅が憂いを帯びた静かな表情に表されているのは、「夢見金鼓懺悔品」の所説に基づき、阿修羅が懺悔し仏法に帰依した姿を表現したためであると解釈されている。
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