八戸小唄の誕生~その後とは? わかりやすく解説

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八戸小唄の誕生~その後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:56 UTC 版)

八戸小唄」の記事における「八戸小唄の誕生~その後」の解説

1931年(昭和6年)2月3日東京日日新聞社主催座談会において、「八戸小唄のようなものを作って八戸市紹介したい」と重雄が発言したのがきっかけであった民謡調の曲にしたのは「今流行り新曲長持ちしない古くて民謡調にしてほしい」という神田重雄希望あったからだとされる当時発案者であった神田重雄にとって、八戸小唄の製作は八戸観光開発一つとして位置付けられた。 民謡歌い手上野氏の師で仙台民謡研究家尺八をする後藤桃水という人がいるとの話が出て上野氏依頼し照会したところ作曲を引きうけることになった同年8月~9月法師浜桜白が作詞原案作り10月後藤桃水氏に作曲され完成した当初原案歌詞には八戸城下の節はなかったが、神田重雄らとの協議の後付け加えられることとなった作曲者後藤桃水氏は踊り振り付けの型を伝えるために吉木桃園女史連れて八戸訪ねる石田家主人石田正太郎さんは、八戸小唄制作のためなら、あらゆる協力をするということで、小中野鮫町の両見番から芸妓さん代表数人ずつ集まってもらった作曲といって後藤桃水さんの持ってきた曲はおたまじゃくし音譜ではなく尺八の譜であった後藤桃水氏をとりまいて芸妓さん達は作曲説明聞いた。たとえば歌詩を十分に表現するために波やかもめを心において作った振り付け八戸とかもめや波を表現するように作ったという話であった芸妓さん達はすぐその場三味線伴奏作る。チリシャン、チリシャン曲の出だし出来た さて唄の伝授にはいった。後藤さんは自ら手拍子しながら「唄によあけた……」とはじめる。みんなは節をそろえてそのあとをつづく節の口伝であった。せっかくの八戸小唄だから名物スケートをぜひ入れてほしいと要望があったのでみんながけいこをしている間にその場で「こさらさら……」の五節つくった吉木桃園さんは紫紺のはかまをはいた先生のようなかたちで踊ってみせた。踊りは何かの振り付け写真を 見ながら、吉木桃園さんを中心に踊った。みんな本職ばかりなのでその手はもっとこの方がいいとか足が引いた方がいいとか相談しながら踊った苦労したのは歌のことだった。歌の発声節まわし長唄調から歌謡調に変えるために、なんべん稽古し 歌と三味線、鉦(かね)太鼓などの伴奏あわせて納得するところまでみんなが芸妓さん達は集まった。こうして正調の唄も踊り八戸小唄完成した記録によれば昭和7年6月仙台NHKラジオ放送同年11月八戸小唄完成祝賀催し八戸市内をオンパレードして祝賀会盛大に開いた。その記念写真のこっている。これを見ると北村益をはじめ市内顔役がずらりならび、それに小中野鮫町の両見番総ざらい顔ぶれ玄関大国旗を交叉(こうさ)している。 まずレコードが必要であることはみんなも考えていたので遂にレコード会社から吹き込み申し込みがやってきた。三社くらいだった記憶する。この当時市長上京して東京で各レコード会社話しあいをした。 1933年(昭和8年)3月3日東京吹きこんだ。日東レコード会社であった。これは会社持ち一千作ったという。八戸小唄NHK仙台放送局からラジオ放送したのは昭和7年6月のことであった(生で唄と演奏した思われる)。 放送レコード伴奏録画歌い手もはっきり決めなければならない。これに間に合うように石田家会場にして小中野見番見番から代表たちに集まってもらい、ここで歌のテストをやった。小中野見番(丸子)、(三吉)、(粂八)、見番から(かの子)、(才三)、(梅太郎)の六人芸妓決まったそのうち歌い手小中野の(粂八)に決定したという。 余談ではあるがこのメンバーで他に唄に小中野見番(丸子)「八戸銘酒小唄八戸酒しぐれ」などニットーレコード(日東蓄音器)より出している。 1953年(昭和28年)の春、時の八戸市商工観光課長中居幸介さんに話して正調八戸小唄保存会つくった岩岡徳兵衛市長会長発足した この唄の踊り座敷踊りなので屋外流し踊りをするために新しく行進用の踊りつくった。この唄の制作者正しく残すこともわたくしの責務でもあろうと考えていたことでもあり、多く友人知人のすすめもあって28年7月社団法人日本音楽著作権協会作詞したいっさい歌詞信託契約した。その中には八戸小唄ふくまれている。 1954年(昭和29年)とあるレコード会社で「ツルさんカメさん」という歌のレコード作ったことがある。この歌は曲は八戸小唄そのまま歌詞変えたものつまり替え歌であった。そのころの八戸市長は岩岡徳兵衛さんであったがわが方の唄を無断で横どりしたというので市長相手方レコード会社訴えと息巻いた全国的な騒ぎになったレコード会社も手をあげとうとう八戸市謝罪するということになり、以後この歌を発表するときは事前に必ず「この歌は八戸小唄替え歌である」ということを、ことわるという口上づきの歌になって騒動ケリとなった1966年(昭和41年)は八戸小唄生まれて35周年にあたりそこで正調八戸小唄保存会でこの唄の制作協力した方、また宣伝努力した方々功労者表彰式敬意を表する議がおこり作曲者紹介者で宣伝努めた上野忠次郎(翁)=代理制作協力者である若松ツルかの子橋本こと(才三)佐々木ムメ梅太郎納所ふち(三吉)=代理岩館ます(丸子音喜多サト(才ハ)音喜多スワ(駒助)宮崎キソ(らん子)稲本トメ五郎)さんら10人を11月11日八戸市の更上関招き表彰式行ない、ときの会長中村拓道市長から表彰状記念品贈りその功績たたえた。 ※()内は芸名 その日祝宴では来賓一同お手のもの八戸小唄歌い踊り心ゆくまで祝いあった。この席上表彰され一同代表して才三こと橋本ことさんは「私どもはこの日のあることをどんなに待ったことか、うれしくてなりません。これからいっしょうけんめいに、わが唄、八戸小唄歌いつづけます」とあいさつして感激していた。 1971年(昭和46年)7月中心街で「第一回八戸小唄流し踊り」が始まる。「八戸小唄」の誕生40周年記念して始まった八戸市中心街はちのへ七夕まつり」の前夜祭行われる恒例催し市内日本舞踊関係者婦人会学生などの団体総勢800人が八戸市中心街十三日町チーノ前から三日町「はっち」前までを流し踊り歩く。 1997年(平成9年)「華屋台」復活八戸三社大祭神社行列最後尾飾ります市内の6流派からなる日本舞踊師範華屋台に乗り八戸小唄」に合わせて舞います。明治時代花街として栄えた小中野・地区芸妓が行列に参加したことが起源とされておりその後様々な理由により祭り参加しない時期長く続きました平成9年入り復活遂げました。昔は芸妓による屋台だったが、現在は芸妓減少していることから市内日本舞踊師範らが踊り披露する2011年(平成23年1月八戸小唄初版SP盤レコード見つかる」。誕生から80年目を迎えた初版SP盤レコード八戸市鮫町の元旅館石田家見つかったデーリー東北より 2011年(平成23年)八戸小唄誕生80周年記念事業小中野湊町鮫町を繋ぐ湊橋7月第一回湊橋八戸小唄まつり」が行われた。流し踊り湊橋の湊側のたもとから出発し渡って小中野新丁夜店の中を通る。3.11東日本大震災があった年でもあり復興計画推進一環でもあった。以後毎年夏に行われている。ここ小中野行われた事は唄・踊り栄えた芸妓さん達も天国喜びであろう2022年令和4年5月13日東奥日報社例年7月八戸市中心街開催している主催事業八戸小唄流し踊り」の中止決めた一昨年続き3年連続影響による2001年含め4回目八戸七夕まつり前夜祭彩る催しだが、同まつりの中止決まったため。八戸小唄流し踊り1971年八戸小唄誕生周年記念して始まった港町八戸夏祭りシーズン到来告げ催しとして、市民の間に定着している。約800人の踊り手たちが白地カモメ柄をあしらった浴衣に身を包んで市中心街を踊り歩く。

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