マエダ工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:45 UTC 版)
明治も後半になると、日本の地方都市でも自転車が見かけられるようになった。堺は鉄砲鍛冶の伝統のある商工業都市であったため、最初は修理から、次第に自転車部品の製造が行われるようになり、大正期には部品製造業界が成り立つに至った。 1922年(大正11年)9月、当時の堺の自転車業界では代表格にあった「日の本鉄工所」から独立した職人・前田鹿之介が設立したフリーホイール製造販売業者前田鉄工所が、マエダ工業のはじまりである。丁寧な仕事で信頼性の高い部品を送り出し、前田鉄工所は8.8.8.(サンパチ)フリーの製造元として認知され順調に業績を伸ばしていった。8.8.8.の意匠は、当時輸入されていたイギリス製高級自転車バーミンガム・スモール・アームズ(BSA、日本ではオートバイでも知られる)に遠目から見て似せた「字を三つ使った意匠」が自転車業界(輪界)で好んで用いられていた一例である。(シマノは333を使っていた。このようなことは、当時の日本ではコピー商品と卑下されることはなく、むしろ「国産化」といわれその技術力向上が賞賛されるものだった。) 第二次世界大戦中は、統制(企業整備令)により、1943年(昭和18年)5月、前田を中心とした11社を合同した有限会社東亜精機工作所が設立され、銃弾や海軍の機器の部品を製造した。当時の堺市は軽工業全体が軍需産業に転換していたため米軍の標的となり、1945年(昭和20年)7月9日夜半、米国陸軍航空隊のB-29戦略爆撃機部隊の空襲を受けた。この空襲で前田鉄工所は工場の一棟だけが半焼で残り、焼け跡には何台かの旋盤が無事に残っていた。加えて空襲に備えてフリーの仕掛品や材料を疎開させていたため、戦後早い時期からフリーの生産を再開することができた。1982年の記念誌『銀輪讃歌』中の年表によれば、8月15日の終戦と同時にフリーホイール専門工場に復帰し、1949年(昭和24年)1月に「有限会社前田鉄工所」に社名を変更している。 サンツアーブランドの誕生は1950年代末である(前述)。また社名としては米国法人を1978年4月にマエダインダストリーオブU.S.A.からサンツアーU.S.A.に変更している。 自転車の後ろ外装型変速機は、以前はその平行四辺形のリンクの軸が車体面と平行に設置されていたため、外装ギアの刃先から離れた位置をほぼ水平にガイドプーリーが移動していた。サンツアーはこれを斜めに設置し、ガイドプーリーが外装ギアの刃先に沿って移動する斜め平行四辺形(slant parallelogram)方式を発明し、特許を取得した(1964年出願、日本国特許 517462(特許公告 S42-23485)、U.S. Patent 3364762)。この方式は1984年の特許期限後、各社が採用した。 前田は1960年代末からアメリカの自転車メーカーに変速機提供をおこなった。自転車ブームとなった1970年代前半にはその勢いを増し、1974年から1984年が会社の最盛期となった。マエダ工業株式会社への社名変更は1975年である。アメリカの自転車ブームは相当な規模となり、従来アメリカに部品を供給していたヨーロッパの主力部品メーカーの供給力が追いつかなくなり、日本の部品メーカーにその門戸が開かれた。当初は低価格品の置き換えだったがすぐにその品質が認められるようになった。ロードレーサー向けのCyclone(1975年)、シュパーブ(1977年)、シュパーブ・プロ(1981年)、マウンテンバイク向けのXC-シリーズ(Pro、Comp、LTD、他)といった製品があった。 この時期の1975年から河合淳三が社長となり、以降、会社の吸収合併まで舵をとった。スプリント競技世界選手権で1977年から1986年まで10連覇した中野浩一はサンツアー専属契約選手で、サンツアー製品がこの10連覇を支えていた。 今では当たり前になっている、ドロップハンドルに手を置いたままシフト操作が可能なレバーも、サンツアーが嚆矢となった。サンツアーが機材供給していた選手が、従来からあった「Wレバー」をドロップハンドルに溶接し、手元で変速できるようにしているのを見て、そのレバーの形状を蝶ネジ形状にし、金属バンドで締め付けて取り付けられるようにして、「コマンドシフター」と名づけて発売したものである。 1982年に発行された創業60年記念誌には、その後の陰りのきざしは見られない。しかし1985年には急激な円高となり輸出企業にとって嵐の時代となった。この年シマノから「SIS(シマノインデックスシステム)」が登場しサンツアーも含めた他社製品が駆逐される契機となった。同時にこのころ、前述の特許の期限により、斜め平行四辺形方式を他社が一斉に採用したため、サンツアーのリアディレイラーの競争力が低下していた。しかも過去10年間で労働コストが上昇していた上での円ショックのため、日本製は低価格では台湾製に太刀打ちできなくなっていた。これにサンツアーが対応できたのは1988年で、低価格品用に台湾工場が作られた。しかし1980年代後半にサンツアーの売上は下降した。Frank J. Bertoは調査報告Sunset for SunTourの中でいくつかの要因を挙げているが、その中にはインデックスシフトの流れに1年乗り遅れたこと、が入っている。 シマノ工業と雌雄を競う自転車部品の大ブランドだったが、マエダ工業は1990年頃から経営危機に陥り、大阪のモリ工業が1990年から1993年にかけておこなった一連の吸収合併を経て、サンツアーブランドは栄輪業のブランドSRと一緒になりSRサンツアーとなった。この時期には一時的に会社名にもサンツアーが使われた(下部参照)。 1990年までは技術的にシマノと同等性能を維持し、1990年代にも話題性のあるパーツを発表したが経営不振を挽回するには至らなかった。この時期の代表的なものに、メンテナンスフリーの廉価サスペンションフロントフォーク「DuoTrack」、オフロードバイク用のブレーキレバー一体型変速レバー「エルゴテックシフター」、転倒時の故障を防ぐため車体横への出っ張りをなくした変速機「S-1」、カンティブレーキの制動力を高める特殊チドリ「パワーハンガー」などがある。
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