ペルシア医学・イスラム医学
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「医学史」の記事における「ペルシア医学・イスラム医学」の解説
詳細は「en:Medicine in medieval Islam」および「ユナニ医学」を参照 ペルシア医学 ペルシアの医学研究および実践は長く豊かな歴史を持っている。ペルシアは東洋・西洋の交易路に位置するため、しばしばギリシャとインド両方の医学の発展を享受した。 東ローマ帝国と敵対していたサーサーン朝は、キリスト教徒による異端・異教徒の迫害を逃れたアレクサンドリアやアテナイの学者たちを積極的に受け入れ、ジュンディーシャープールに学者や生徒たちが集い、各国の医学書が翻訳され盛んに研究が行われた。教育を行う病院が考案されたのは、ジュンディーシャープール大学であるとも言われている。 イスラム医学 ムスリムやキリスト教ネストリウス派など、様々な宗教・人種の医師、錬金術師、薬剤師たちによる、解剖学・眼科学・薬理学・薬学・生理学・外科学・製剤科学などの医学領域への多大な貢献により、イスラム文化はは古代ギリシア・ローマの医学技術をさらに発展させた。ガレノスとヒポクラテスが過去の典拠となっていた。830年ごろから870年ごろまでのガレノスの著作129点は、フナイン・イブン・イスハークとその助手たちによってアラビア語に翻訳された。その中でも特にガレノスの主張する理性的・体系的な医学のアプローチが、イスラム医学のひな型として、イスラム帝国内に素早く広まった。医師によって初めて専門病院が設立された。専門病院はその後十字軍遠征の間にヨーロッパに広まったが、これも中東の病院から着想を得たものである。 キンディー (801 - 873?)は『De Gradibus』を著し、数学を医学(特に薬学)へ適用して論じた。キンディーは『De Gradibus』の中で、薬の強さの度合いを測る数学的な軽量法や、医者が患者の病気の最も危険な時期を特定する仕組みを開発した。 アル・ラーズィー(865-925)は自身の経験した臨床事例を記録し、様々な病気について有用な記録を残した。『包含の書』(al-Hawi, アル=ハーウィー)は、アル・ラーズィー(ラテン名でラゼス(Rhazes)とも呼ばれる)の最大の著作集である。この中で、ラーズィーは自らの経験による臨床事例を記録し、様々な病気の有用な記録を残している。ラーズィーの『天然痘と麻疹の書』(al-Judari wa al-Hasbah)では麻疹と天然痘について記述し、ヨーロッパに大きな影響を与えた。『ガレノスに対する疑念』(Al-Shukuk ʿala Jalinus、英:Doubts About Galen)では経験的な方法から四体液説の誤りを証明するなど、ガレノス医学に批判を加えた。また錬金術に対する知識も深く、医師活動の中で意図的にアルコールを用いた初めての医師となった。 アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー(アブルカシム)は近代外科学の父と考えられ、30巻の医学事典「Kitab al-Tasrif」を著した。これは17世紀までイスラム圏とヨーロッパの医学部で教材に使われた。アブルカシムは女性にのみ用いるものも含め、数多くの手術用具を用いた。これには腸線・鉗子・結紮糸・手術針・メス・キューレット・開創器・手術用スプーン・ゾンデ・手術用フック・手術用ロッド・膣鏡・骨用鋸・漆喰などがある。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ムータジラ派の哲学者でもあった[要出典]イブン・スィーナー(980 - 1037、ラテン名アヴィケンナ)は、医学の父といわれ、歴史上最高の思想家・医学者のひとりである。著書『医学典範』(1020)および『癒しの書』(11世紀)は、17世紀までイスラム圏とヨーロッパの標準テキストであり続けた。イブン・スィーナーの業績には、体系的な生理学研究の中に実験と量化を導入したこと、感染症の感染性質の発見、感染症の拡散を抑制するための検疫の導入、実験医学・治験の導入の他にも、細菌・ウイルスについて、縦隔炎と胸膜炎の区別、結核の感染性質、水や土からの病気の蔓延、肌荒れについての詳細な記述、性感染症、倒錯、神経系の失調などの記述を初めて行い、また発熱に対して氷を用いたり、薬理学・医学を区別したり(製薬科学の発展において重要)もした。 1021年、イブン・アル=ハイサム(アルハセン)(965 - 1040)によって眼科手術の重要な進歩があった。アル=ハイサムは視界と視覚のプロセスを研究し、著書『Kitab al-Manazir』(光学の書)の中で初めて正しく説明した。 イブン・アル=ナフィスは、初めて肺循環と冠動脈について記して循環系の基礎を作ったため、循環理論の父と呼ばれる。アル=ナフィスはまた、代謝の概念を最初に述べた。また生理学および心理学の新しい体系を作り上げて、イブン・スィーナーやガレノスの体系に取って代わった。この中でアル=ナフィスは彼らの四体液説、脈動、骨、筋肉、腸、感覚器、胆汁、管、食道、胃などについての誤った考えを批判した。イブン・アル=ルブディは四体液説を否定し、人体およびその保全は血液のみによることを発見した。また女性が精液を生産できるというガレノスの節を否定し、動脈の動きは心臓によるものではないこと、胎児の体で最初に作られる臓器は心臓だということ(ヒポクラテスは脳だと考えていた)、頭蓋骨を作る骨は腫瘍になりうるということを発見した。モーシェ・ベン=マイモーン(マイモニデス)はユダヤ人だったが、13世紀のイスラム医学に様々な貢献を果たした。 マンスール・イブン・イリヤスの『人体解剖書』(Tashrih al-badan 1390年ごろ)には、人体構造上の神経系・循環器系の全図が掲載された。14世紀のアンダルスにおけるペスト・腺ペスト流行期に、イブン・カティマとイブン・アル=カティブは、伝染病は人間の体に入り込む微生物が原因であることを発見した。その他にもムスリムの医師によってなしとげられた医学上の発展には、免疫系の発見、微生物学の導入、動物実験の活用、他の科学分野とのコンビネーション(農学・植物学・化学・薬理学など)、注射器の発明(9世紀イラク アマー・イブン・アリ・アル=マウシリによる)、最初の薬局の誕生(バグダード 754年)、医学と薬学の区別(12世紀以前)、2000種類以上の医学・化学物質の発見などがある。
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