『医学典範』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 22:48 UTC 版)
医学者として、イブン・スィーナーはヒポクラテスやガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した。『医学典範』の執筆においては、10世紀末のジュルジャーンのキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーの『医事百科の書』を見本にしたと言われている。『医学典範』は、以下のように構成される。 1巻『概論』1部 - 医学の概念 2部 - 病気の原因と兆候 3部 - 健康の保持法 4部 - 病気の治療法 2巻『単純薬物』 - 植物・鉱物・動物から成る、811の「単純な」薬物の性質 3巻『頭より足に至る肢体に生じる病気』 - 個々の病とその治療法。身体の器官と部位によって分類されている。 4巻『肢体の一部に限定されない病気』 - 外科と熱病、整形 5巻『合成薬物』 - 様々な薬剤の調合法と用途 2巻、5巻の記述の大半はディオスコリデスの著作を典拠とし、残りの巻の理論はヒポクラテス、ガレノス、アリストテレスの著作に基づいている。また、イブン・スィーナーは『医学典範』の内容を1,326行の詩の形にしてまとめた『医学詩集』を著した。『医学詩集』もラテン語に訳され、中世ヨーロッパの医学生に愛読された。 『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳され、ラテン世界では『カノン』(canōn(英語版))の名前で知られている。ヨーロッパにおいて最初に『医学典範』に興味を持ったのはロジャー・ベーコンら13世紀の哲学者であり、やがてフランスやイタリアの医学校で教科書として使用されるようになった。ヨーロッパの聖堂の多くにはイブン・スィーナーの肖像が飾られ、ダンテの『神曲』においては、イブン・スィーナーはヒポクラテスとガレノスの間に置かれた。 ルネサンス期に入ってヨーロッパにおける『医学典範』の権威に陰りが現れ、16世紀の医師パラケルススは、彼をヒポクラテス、ガレノスと共に旧弊医学の代表に挙げて批判した。1527年の聖ヨハネの日の夕方、パラケルススは「古い医学の弊害を浄化する」ために、バーゼルで『医学典範』をはじめとする古典医書を焼却した。また、近代解剖学の草分けであるアンドレアス・ヴェサリウスもイブン・スィーナーの研究を批判した。 しかし、ヨーロッパのいくつかの医学校では17世紀半ばまで『医学典範』が教科書として参照され続けた。インドでは20世紀初頭まで『医学典範』が医学教育の入門書として使用され、中東諸国の中には20世紀以降も参照している地域が存在する。
※この「『医学典範』」の解説は、「イブン・スィーナー」の解説の一部です。
「『医学典範』」を含む「イブン・スィーナー」の記事については、「イブン・スィーナー」の概要を参照ください。
- 『医学典範』のページへのリンク