ヨーロッパへの影響
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空気中に1億2000万トンもの二酸化硫黄が放出された。これは、1991年のピナトゥボ山噴火に匹敵し、ヨーロッパにおける2006年工業製品生産量の3倍に相当する。この二酸化硫黄粒子は西ヨーロッパ全体に広がり、1783年から1784年の冬までの間に何万もの人が死んだ。 1783年の夏は記録的な猛暑で、アイスランド上空に巨大な高気圧が発生し、南東方向に風が吹いた。毒の雲はデンマーク=ノルウェーのベルゲン(スカンディナヴィア半島先端)に到達し、6月17日にはボヘミアのプラハに、6月18日にはベルリンに、6月20日にはパリに、6月22日にはル・アーヴルに達した。6月23日にはイギリスに達した。あまりに霧が深かったため、船が港から出られなかった。また、太陽は「血の色 (blood coloured)」と呼ばれた。 人々は硫黄化合物のガスを吸い込み、肺の柔組織が腫れ上がったため、呼吸困難になった。フランス中部のシャルトル市の死者数は8月と9月に40人ずつ増加し、局地的死亡率が5%ずつ上昇した。一方イギリスの記録では、屋外労働者の死者が増加し、ベッドフォードシャー州、リンカンシャー州など東部沿岸の死亡率が2~3倍になった。8月、9月にイギリスで中毒死した人は23,000人と推測されている。 このもやは雹を含んだ激しい雷雨を引き起こし、秋に収まるまでに多くの牛が死んだ。さらに1784年の冬には寒波をもたらした。ハンプシャーのセルボーン(英語版)に住むギルバート・ホワイトは、氷点下の気温が28日間続いたと記し、以下の記録を残している。 1783年の夏は驚くべき恐ろしき現象の前触れだった。小石が激しく降り注ぎ、雷雨が襲った。独特のもや、くすぶった霧が発生し、数週間にわたって王国の多くの郡を驚かせ、苦しめた。ヨーロッパの他の地域でも同じようなことが何箇所でも起こった。それは異様な風景であり、今までに人類が体験したすべての経験と異なっていた。6月23日から7月20日までの日記を読み返して、私は気付いた。その期間、さまざまな方位から風が吹いたが、その風で空気が入れ替わることは無かった。正午の太陽はまだら模様で、月と同程度の明るさしかなかった。太陽の色は、まるで錆びた土か、部屋の床のようだった。しかし日の出、日の入の際には、燃えるような血の赤色を見せた。気温が上がり、肉屋で売られている肉も2日で駄目になった。蝿が頭にたかるため、馬は半狂乱になり、言うことを聞かなくなった。人々は太陽の怒りによるものだと迷信的になった; [...] — Gilbert White - The Natural History and Antiquities of Selborne, Letter LXV (1789). この寒さでイギリスの死者数はさらに8000人増えたと推測される。さらに春の雪解けで、ドイツと中央ヨーロッパでは激しい洪水被害を記録した。 ラキ火山の影響は、その後数年にわたってヨーロッパに異常気象をもたらした。フランスではこの影響で、1785年から数年連続で食糧不足が発生した。その原因は、労働者数の減少、旱魃、冬と夏の悪天候であった。1788年には猛烈な嵐が起こり、農作物が大被害を受けた。これにより生じた貧困と飢饉は、1789年のフランス革命の大きな原因のひとつになった。 なお、ラキ火山の噴火は異常気象の原因の1つにすぎない。グリムスヴォトン火山もまた1783年から1785年にかけて噴火しており、最近の研究では1789年から1793年にかけてエルニーニョが発生したとする説もある。
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ヨーロッパへの影響
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「中世料理#中世の食事療法」も参照 ヨーロッパでは6世紀以降、長く医学が停滞し、中世の医学は主に修道院が担っていた。十字軍でヨーロッパがアラビアと接触すると、アラビアの最新医学は徐々にヨーロッパに取り入れられ、サレルノ医科大学の教師コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017–1087)らが、イブン・スィーナーやアル・ラージーの医学書を翻訳した。12世紀には、イタリアなどで大学が設立され、医学部ではアラビアの医学書を教科書として専門教育が行われた。15~16世紀まで、医学部では主にユナニ医学が教えられており、18世紀までイブン・スィーナーの『医学典範』が教科書として使われていた。 ルネサンス以降、16世紀には、アンドレアス・ヴェサリウスがガレノス解剖学の誤りを証明するなど、さまざまな新発見があった。また、19世紀には実験医学が登場し、西洋医学は伝統医学的思考から自然科学へと方向を転じた。しかし、ユナニ医学の基本である体液病理説(四体液説)は、1858年のウィルヒョー(ウィルヒョウ、フィルヒョウ)の細胞病理説まで、ほとんど議論の余地なく受け継がれていた。 また、人体構造の解明や医学理論を重視した西洋近代医学では、治療の分野の発展が最も遅れたため、正規の医療とユナニ医学をベースにした伝統医療や民間療法の治療には、19世紀後半までさほど差がなかった。また、大学を出た医師による正規の医療は高額であり、権威を笠にきた高圧的な医師が多かった。そのためヨーロッパでは、医師免許を持たない民間の治療者が根強い支持を集めた。ヨーロッパの民間療法・自然療法は、ユナニ医学を受け継いだものも多く、例えば、19世紀に食事療法を体系化し、温水による湿布を用いたドイツの自然療法家ヨーハン・シュロートは、体液病理説に依拠する身体観・疾病観を堅持していた。
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ヨーロッパへの影響
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「アメリカ独立戦争」の記事における「ヨーロッパへの影響」の解説
フランスについては「アメリカ独立戦争におけるフランス」を参照 勝利を喜んだのはアメリカだけではなく、フランス王国もそうだった。 熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は、既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命を起こす要因となった。 またアメリカ独立宣言はフランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。また独立戦争に参加したポーランド人のタデウシュ・コシチュシュコは、故国のポーランドにおけるポーランド分割に対抗して反乱を起こした。 なお、アメリカ合衆国の独立を最初に承認したのは、スウェーデンであった。1783年には、アメリカ・スウェーデン友好通商条約を結んだ。
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