ヨーロッパへの使節派遣とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ヨーロッパへの使節派遣の意味・解説 

ヨーロッパへの使節派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 10:55 UTC 版)

アルグン」の記事における「ヨーロッパへの使節派遣」の解説

アルグン治世にはマムルーク朝対策のため、ヨーロッパ勢力使者を交していたことが知られている。主にローマ教皇庁フランス王国へのものが有名である。1288年ネストリウス派の「カタイオング都市首都大主教」バール・サウマらがローマへ派遣され教皇ニコラウス4世謁見して国書手渡したニコラウス4世はこれを大い歓迎してキリスト教徒君主であるアルグン称讃し、返書では「聖地エルサレムキリスト教徒側に奪還しエルサレム王国解放遠からず容易に達成するであろう」とアルグンエルサレム入城進言している。またエラダク、トクダンのふたりのモンゴル王妃カトリック改宗した聞き、両妃にも別途書簡送って言祝いだと伝えられる前者はエラダクはアルグンと妃ウルク・ハトゥンとの娘オルジェイ・ハトゥンあたりかと考えられ後者トクダンは弟ゲイハトゥ母后トクダン・ハトゥンと考えられる)。 また1289年にはアルグン側近ジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフがローマにたどり着き先に教皇からの返書同意して聖地エルサレム攻略案を了承するアルグンからの声明伝え、さらにイングランド国王エドワード1世フランス国王フィリップ4世にも同様にシリア・パレスティナ遠征提案了承する書簡ラテン語による注釈付き届けたと言う1291年1月にはこれらの書簡フランスイングランド届き8月には教皇ニコラウスエドワード1世宛の親書アルグンが自らの愛子ニコラウスという洗礼名与えたことを引いてアルグンからの書簡紹介十字軍への参加要請している。しかし、この周到に錬られたシリア遠征計画も、フランス達した2ヶ月後には、当のアルグン病没してしまい事実上頓挫したアルグンがこれらヨーロッパ教皇君主たちへ発した勅書の内、ニコラウス4世フィリップ4世宛の、朱印入りウイグル文字モンゴル語国書それぞれバチカン図書館フランス国立図書館に現在でも伝存している。

※この「ヨーロッパへの使節派遣」の解説は、「アルグン」の解説の一部です。
「ヨーロッパへの使節派遣」を含む「アルグン」の記事については、「アルグン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヨーロッパへの使節派遣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヨーロッパへの使節派遣」の関連用語

ヨーロッパへの使節派遣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨーロッパへの使節派遣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアルグン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS