ヨーロッパへの移動と自転車旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:10 UTC 版)
「ファニー・ブロック・ワークマン」の記事における「ヨーロッパへの移動と自転車旅行」の解説
1889年、ワークマン家はウィリアムの健康を理由にドイツに移転したが、ポーリーはこれが単に口実に過ぎなかったと推測しており、事実ウィリアムは驚くほど急速に快復した。ドレスデンに到着してから間もなく、夫婦の2番目の子供であるジークフリートが生まれた。ファニーとウィリアムはこうして2人の子供を得ていたが、ファニーは妻であり母であるという社会的に受け入れられる役割に落ち着くことを拒否し、その代わりに著作家かつ冒険家になった。1800年代の理想とされた女性らしさとは異なった活発な生活を送った。フェミニストとして、自分は困難な生活でも男性と同等かそれを超えることができる例だと考えた。当時の新しい女としての精神を実現できると考えた。さらには、ミラーが女性探検家に関する著作で指摘しているように、当時の理想の家庭は大きなものであり、避妊に関する情報は容易に得られなかったので、ウィリアムの医学の知識が貴重なものだったに違いないということである。ワークマン家は長い旅行をする間、子供たちを子守に預けた。1893年、ジークフリートがインフルエンザと肺炎の合併症で死んだ。その死後、ポーリーに拠れば、ワークマンは自転車旅行を通じて積極的に新たなアイデンティティを求め、それは妻や母という伝統的な責任から開放されるものであり、「彼女の」興味や大望に合わせることを認めるものだった。夫妻は1912年にあった娘の結婚式も、カラコルム山脈を探検していたので、出席できなかった。 ワークマン夫妻は共に世界を探検し、8冊の紀行本を共著し、その中で旅した地域の人々、芸術、建築について叙述していた。その作品の中で他の著作家について触れていたように、旅行記のジャンルに貢献していることに気付いていた。その登山に関する語りはそれら遠隔の、人も住まない地域の文化についてはあまり触れていない。その著作の愛読者のために日没について抒情的に記述し、科学的な指導者のためには氷河など地形的な特徴を詳細に説明していた。王立地理学会のような権威ある組織に訴えるためには、その著作の中に科学的な要素を付け加えた。ファニーは、その登山家たちの目には科学がより根拠を与えるものになるとも考えたが、それは読者にとっては苦痛になった。夫婦の自転車旅行に関する語りは概して、山登りに関する記述よりも読者から好意的に受け入れられた。ファニーは紀行本の大半を執筆し、その中に、旅したどこであっても女性の窮状について広範にコメントを入れた。 ステファニー・ティングレーは、その百科事典のワークマンによる紀行本に関する記事で、女性が経験する困難さ、ならびに社会において彼女が出逢った女性の地位の低さについてフェミニストの観点から批判があると記している。女性の権利について、強い意志を持ち声に出して訴える支持者として、その能力を示し、他の女性が生きている不平等に焦点を当てることに、その旅行を使った。しかし、夫妻の紀行本は一人称複数形あるいは三人称単数形で書かれており、そこに述べられている見解や意見がウィリアムのものか、ファニーのものなのか、はっきりと識別することは困難である。ワークマン夫妻の作品は、出逢った人々を説明する時に植民地主義者であり、「風変りあるいは異常」なことと観察しており、「最悪の場合は原始人あるいは人間以下の者」と見ている。しかし、彼らが出会った人々が彼らを類似した光の中で見ていることを明らかにしたときに、時として彼等自身の偏見に気付いていることを示している。 1888年から1893年、ワークマン夫妻はスイス、フランス、イタリアに自転車旅行を行った。1891年、ファニーはモンブランに登った最初期の女性となった。ユングフラウやマッターホルンに登った最初期の女性でもあった。そのガイドはピーター・タウクヴァルダーであり、イギリスの登山家エドワード・ウィンパーと最初に登った者でもあった。1893年、ワークマン夫妻はヨーロッパ以外を探検することに決め、アルジェリア、インドシナ、インドに向かった。このこれまでより長い旅はファニーのアイディアだった。夫妻の最初の長距離旅行は1895年のスペインを通る2,800マイル (4,500 km) の自転車旅行だった。2人ともそれぞれ20ポンド (9.1 kg) の荷物を積み、1日45マイル (72 km) を走り、時には80マイルまで伸ばすこともあった (130 km)。その後にこの旅について『現代のイベリアにおける自転車旅のスケッチ』を共同で著した。その本の中で、スペインについて「素朴で、奇妙で、チャーミング」と表現していた。これはよくある旅行記の書き方であり、彼らの本は新鮮でもオリジナルなものにもならなかった。『アルジェリアの記憶』の中では、田舎の美しさやロマンスに焦点を当て、愕然とさせられるような都会の状態に触れることは避けていた。しかし、スペインの社会で女性が虐待され軽視されていることは取り上げていた。
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