ヨーロッパへの最初の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:45 UTC 版)
「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の記事における「ヨーロッパへの最初の旅」の解説
1850年、ローウェルの母が思いがけなく死亡した。このとき三女のローズも死んだ。その死がローウェルを落ち込ませ、6か月間は引きこもりがちになった。ただし、この年末には長男のウォルターが生まれていた。ローウェルはある友人にその死について「個人的な教師。我々には仲間の学者が居らず、我々の授業を心だけ受けなければならない」と書いていた。この個人的なトラブルと共に、奴隷制度に絡む妥協があり、ウィリアム・ウェットモア・ストーリーからのイタリアで冬を過ごすという提案を受け入れることになった。その旅行費用を出すために、ローウェルはエルムウッド周りの土地を売却した。その後も収入を補うために土地を切り売りし続け、最終的に当初30エーカー (120,000 m2) あった土地の25エーカー (100,000 m2) を売ることになった。息子のウォルターがローマで突然コレラのために死に、ローウェルと妻は娘のメイベルを連れて1852年10月にアメリカ合衆国に戻った。ローウェルは幾つかの雑誌に旅行記を掲載し、その多くは後の『炉辺の旅』(1867年)に纏められた。また『イギリスの詩人』のシリーズには伝記的スケッチのある本の編集もした。 妻のマリアは長年健康状態が悪いままだったが。1853年春にさらに悪くなり、10月27日に結核で死んだ。その埋葬の直前に、娘のメイベルが母の顔を見られるように棺の蓋を開けた。そのときローウェルは「木にもたれたまま長い間泣いていた」と出席していたヘンリー・ワーズワース・ロングフェローとその妻が語っていた。1855年、ローウェルは妻の死の記念作品集出版を監督したが、私家版で僅か50部を刷っただけだった。エルムウッドでのローウェルの生活は、「根っから楽しい」性格を自称していたにもかかわらず、父が老年になって耳が不自由になったことで複雑なことになり、姉のレベッカの精神状態がおかしくなり、1週間も何も喋らないこともあった。ローウェルは再度世間から離れ、エルムウッドに引きこもり、この時期からその日記帳は妻のイニシャルが書かれた謎めいたものになっていた。例えば1854年3月10日の記載内容は、「暗い、以外と以内、M.L. M.L. M.L.」だった。ロングフェローはローウェルを「寂しく、孤独である」と記述していた。
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