スラヴの盟主
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「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「スラヴの盟主」の解説
1910年4月10日には、戦列艦ツェサレーヴィチ、スラヴァ、装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフ、巡洋艦ボガトィーリ、オレークからなるバルト分遣隊に編入された。これらは、夏を通じて演習と射撃訓練に従事した。 1910年夏には、リューリクは戦列艦ツェサレーヴィチ、スラヴァ、巡洋艦ボガトィーリとともに海外への航海を行った。7月初めには、海軍省から地中海への出港に備えるよう指令があった。バルト分遣隊は、そこでモンテネグロ公ニコラ1世の治世50周年式典に参加する任務が与えられていた。 皇帝ニコライ2世は、この訪問はモンテネグロ君主への尊敬と関心の印となる以外にヨーロッパ列強へのデモンストレーションになると考えていた。とりわけ、オーストリア=ハンガリー帝国にとっては、成長したロシアの海軍力とスラヴ民族の友邦が助けを必要とする火急の事態へのロシアの対処能力の誇示という政治的な重要性があると考えた。 7月13日、バルト分遣隊は必要物資を積載するためレーヴェリからクロンシュタットへ移動した。そこで、分遣隊は海軍大臣や皇帝の視察を受けた。分遣隊はN・S・マニコーフスキイ海軍少将の将官旗を掲げてポーツマスへ向かって出航し、順調に航海を進めた。ところが、7月20日午前4時近く、ボーンホルム島にて突然デンマークのスクーナー・エデンが接近し、スラヴァとリューリクのあいだを横切った。エデンはスラヴァの艦尾に衝突したが、奇跡的にリューリクの衝角への激突は免れた。ロシア艦が低速で進んでいたこともあり、すんでのところで沈没は回避された。ロシア艦はデンマーク船へ端艇を差し向けたが、船長は救助は必要ないとして支援を断り、ボーンホルム島へ向かった。バルト分遣隊は、予定通りの進路で航海を続けた。 分遣隊は各地に寄航しながら、7月24日にはスピットヘッド停泊地に到着した。そこで、ロシアの大使のカッターと会い、イギリスの使節の訪問を受けた。ロシア水兵とイギリス当局の関係は非常に良好で、ロシア水兵は懇ろな歓待を受けた。彼らはポーツマスのイギリス海軍軍港とそこにあった軍艦を見学し、劇場やレストランへ案内された。一方、イギリス人もロシア艦を案内され、その艦全体の秩序と個々人の規律のよさに感銘を受けた。こうしたことは、政治的にロシアにとって有利に働くとロシア大使は期待した。 ポーツマスへの滞在は短期間で終わり、3 日後の7月27日にはジブラルタルを目指して出港した。その途上、スラヴァがボイラー蒸気ポンプ故障のため落伍した。速力は8 kn、やがて6 knしか出なくなり、状態は徐々に悪化していった。スラヴァはジブラルタルに留め置かれ、分遣隊はアルジェを経由してアドリア海へ向かった。そして、8月15日深夜2時、オーストリアの港フィウーメに投錨した。分遣隊は、鉄路でやって来たロシアからの式典参加者をここで乗せる予定であった。 続く2 昼夜、乗員は必要物資の積載、塗装作業、乗客の乗船を拒否された。8月17日、フィウーメにモンテネグロ王ニコラ記念第15銃兵連隊の将校、V・S・ヴェーイリ大佐とA・N・レーベデフ大尉がロシア帝国軍の代表団として訪れ、リューリクに乗艦した。翌18日朝には、ツェサレーヴィチにニコライ、ピョートル両大公が乗艦した。統治王朝の高位の人物の式典への参加は、偶然のものではなかった。彼らのニコライ2世の実のおじたちはモンテネグロ王の娘婿であり、彼らの訪問は公式の政策に温かい家庭の色を添えることになると考えられた。 8月18日、ロシア艦隊はフィウーメを出港した。その途上、ギリシャ・キプロスの情勢不安を巡る国際連合艦隊に参加して地中海を訪問していた装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフとコルフ近くで合流し、8月19日 にモンテネグロ・アンティヴァリに到着した。アンティヴァリでは、ロシア艦隊は祝砲の出迎えを受けた。各艦から8 名の士官と6 名の艦隊実習生、水兵一個小隊が陸へ招待された。彼らは、公式の式典に参加するため、モンテネグロの首都ツェティニェへ出発した。彼らは、治世50周年に際して王に即位した ニコラ1世から王の名において勲章やメダルを授与され、温かな歓待を受けた。 式典は1週間近くも続けられ、8月25日に終わった。翌26日朝には、両大公とその妻女がツェサレーヴィチに乗艦した。彼らに続き、モンテネグロ国王自らがツェサレーヴィチを訪問して艦を見学した。また、艦上での朝食会に参加した。14時30分には、国王は下艦した。翌27日、ロシア艦隊はフィウーメを目指して碇を上げた。艦隊はそこで乗客を降ろし、ロシアへ向かう汽車に乗せる予定であった。岸へ向かう前、ニコライ大公はカッターに乗って艦の周りを回り、乗員の熱意に対する感謝の意を表した。 しかし、汎スラヴ主義に則って声高にスラヴ民族の統一を唱える今回のデモンストレーションはオーストリア=ハンガリー帝国政府にとっては耳障りなものであり、海軍大臣のR・モンテクッコリ伯爵は装甲巡洋艦カイザー・カール6世に乗って抗議のためフィウーメに向けて出航した。 翌8月28日早朝、フィウーメにモンテクッコリ提督旗を掲げた装甲巡洋艦カイザー・カール6世が入港し、ツェサレーヴィチとのあいだで礼砲を交わした。正午近く、マニコーフスキイ海軍少将はオーストリア艦へ出立し、そのタラップにて艦隊副官と面会した。副官は、モンテクッコリ提督は「現在朝食中であり、彼の下には来客があるため」誰も艦に上げられないということを伝えた。マニコーフスキイの言葉によれば、このとき後甲板では何かアリアのような音楽が流れており、それはタラップにまで聞こえてくるほどであった。そして、彼のカッターが離艦するとき、定型の礼砲は発射されなかった。マニコーフスキイ提督は悔しさからモンテクッコリの返礼訪問を断り、乗艦を拒否していかなる敬意も表さないよう命じた。 15時近く、モンテクッコリ提督がツェサレーヴィチに到着した。彼は不快な出来事を詫び、ロシア提督の離艦の際に乗員が礼砲を撃たなかった訳を説明し、非礼を詫びた。しかしながら、夕刻にはマニコーフスキイは定型の礼砲を撃たないことは無作法で海軍エチケットに反するものであり、ロシア海軍の名誉を傷つけるものであると叱責する通知書を発送した。提督の決断は効果を発揮し始めた。出航に向けて準備を始めていたカイザー・カール6世は数時間出港を遅らせ、ちょうど8月29日午前8時きっかりに13 発もの礼砲を大音量で発射し、前檣中檣 にアンドレイ旗を掲げた。こうして、事件は解決した。 出港までの残りの日々はすべて石炭の積載に費やされた。その作業は、9月1日から4日まで休みなしで続けられた。乗員は非常に疲れ切ってしまい、そのことから悲劇が生じた。9月3日午前8時15分、リューリクへ石炭袋を運び上げていた際、そのひとつが中身を撒き散らしながら船倉へ落下し、数 mの高みから隊つきの下士官、D・クリールカにぶつかった。彼は意識が戻らぬまま2 分後に死亡した。調査の結果、彼は急ぐあまり不注意になっており、空の袋を拾い上げようとしながら自分で件の石炭袋を起重機へ掛けたのだということがわかった。彼の葬儀は翌日行われ、そこには士官や艦隊実習生の部隊、ロシアの大使、オーストリアの軍民の代表者をはじめ、多くの参列者が出席した。 9月4日14時、バルト分遣隊はフィウーメ停泊地をあとにした。次なる目的地、クレタ島のスダ港には9月7日に到着した。ここで国際連合艦隊に戻る装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフおよび航洋砲艦ヒヴィーネツと別れた。スダ湾では固定的に対する練習射撃が行われ、なおかつ士官候補生の指揮訓練が行われた。分遣隊長の記録によれば、艦隊実習生らはよく射撃を実施しており、結果は満足の行くものであった。 9月11日朝、艦隊は碇を上げ、コレラの蔓延するナポリを避けてトゥーロンへ向かった。出航に際し、今度はツェサレーヴィチに曳航された移動的に対する射撃訓練を実施した。そこで、リューリクの艦隊実習生は最も優れた成績を上げた。 トゥーロンへの途上、リューリクはピレウスへの予定外の寄港をすることになった。艦内に重度の腹膜炎の患者が出たためで、彼はピレウスの病院へ移された。1 昼夜ののち、リューリクは再び分遣隊に合流した。 9月16日、艦隊はトゥーロン停泊地に到着した。ここでもやはり救命艇や火砲での訓練が行われた。並行して、リューリクではフォルジュ・エ・シャンティエ・デュ・ラ・メディテラネ社の専門家により配水本管の換装工事が行われた。しかし、一部の工事が終わらなかったため延期され、スペイン・ビーゴにて完了した。 トゥーロンでも現地当局とロシアの水兵との関係は至って良好で、その歓待は懇ろなものであった。マニコーフスキイ提督の報告によれば、それはあまりに昼食や朝食に誘われるため、時間が足りなくてせっかくの招待を断らなければならないほどであった。9月30日にはロシア艦隊はフランスをあとにし、ジブラルタルへ向かった。 長期航海は乗員を非常に疲れさせ、そのため規律違反が増加した。リューリクでも例外ではなかった。1週間の航海ののち、10月5日には艦隊はビーゴに到着し、その12日後にはシェルブールへ向けて出港した。フランス沿岸を進んだのち、10月21日には分遣隊はシェルブール停泊地に到着し、乗員たちはすぐさま石炭の積載作業に入った。寒冷な天候のため作業はより難しくなり、とりわけほかの艦と違って蒸気船からではなく艀から石炭を持ち上げなければならなかったリューリクでは作業が難航した。 10月26日13時、バルト分遣隊は北海へ出航した。しかし、そこでは9 バールの厳しい時化と船体の激しい揺れに見舞われた。リューリクでは振幅は16 度に達し、後甲板はしょっちゅう大量の水で覆われた。ハッチ覆いや小昇降口にヴィッカース社がゴム製のパッキングを施しておらず、そのためそこから居住区や下層甲板の一部へ水が流れ込んできた。しかし、どうにかこれを克服し、リューリクは11月2日、他艦とともに無事クロンシュタットへ到着した。これで長かったこの年の活動は終了した。
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