スラヴの盟主とは? わかりやすく解説

スラヴの盟主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:50 UTC 版)

リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「スラヴの盟主」の解説

1910年4月10日には、戦列艦ツェサレーヴィチスラヴァ装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフ巡洋艦ボガトィーリ、オレークからなるバルト分遣隊編入された。これらは、夏を通じて演習射撃訓練従事した1910年夏には、リューリク戦列艦ツェサレーヴィチスラヴァ巡洋艦ボガトィーリとともに海外へ航海行った7月初めには、海軍省から地中海への出港備えるよう指令があった。バルト分遣隊は、そこでモンテネグロニコラ1世治世50周年式典参加する任務与えられていた。 皇帝ニコライ2世は、この訪問モンテネグロ君主への尊敬関心の印となる以外にヨーロッパ列強へのデモンストレーションになると考えていた。とりわけオーストリア=ハンガリー帝国にとっては、成長したロシアの海軍力とスラヴ民族友邦助けを必要とする火急事態へのロシア対処能力誇示という政治的な重要性があると考えた7月13日バルト分遣隊必要物資積載するためレーヴェリからクロンシュタット移動した。そこで、分遣隊海軍大臣皇帝視察受けた分遣隊N・S・マニコーフスキイ海軍少将将官旗を掲げてポーツマス向かって出航し順調に航海進めた。ところが、7月20日午前4時近くボーンホルム島にて突然デンマークのスクーナー・エデンが接近しスラヴァリューリクのあいだを横切ったエデンスラヴァ艦尾衝突したが、奇跡的にリューリク衝角への激突免れたロシア艦が低速進んでいたこともあり、すんでのところで沈没回避された。ロシア艦はデンマーク船へ端艇差し向けたが、船長救助必要ないとして支援断りボーンホルム島向かったバルト分遣隊は、予定通り進路航海続けた分遣隊各地寄航しながら、7月24日にはスピットヘッド停泊地到着した。そこで、ロシア大使カッター会いイギリス使節訪問受けたロシア水兵イギリス当局の関係は非常に良好で、ロシア水兵懇ろな歓待受けた。彼らはポーツマスイギリス海軍軍港とそこにあった軍艦見学し劇場レストラン案内された。一方イギリス人ロシア艦を案内され、その艦全体秩序個々人規律のよさに感銘受けたこうしたことは、政治的にロシアにとって有利に働くとロシア大使期待したポーツマスへの滞在短期間終わり3 日後の7月27日にはジブラルタル目指し出港した。その途上スラヴァボイラー蒸気ポンプ故障のため落伍した速力は8 kn、やがて6 knしか出なくなり、状態は徐々に悪化していった。スラヴァジブラルタル留め置かれ分遣隊アルジェ経由してアドリア海向かった。そして、8月15日深夜2時、オーストリアの港フィウーメ投錨した分遣隊は、鉄路でやって来たロシアからの式典参加者をここで乗せる予定であった。 続く2 昼夜乗員必要物資積載塗装作業乗客乗船拒否された。8月17日フィウーメモンテネグロニコラ記念15銃兵連隊将校V・S・ヴェーイリ大佐とA・N・レーベデフ大尉ロシア帝国軍代表団として訪れリューリク乗艦した。翌18日朝には、ツェサレーヴィチニコライピョートル大公乗艦した。統治王朝高位人物の式典への参加は、偶然のものではなかった。彼らのニコライ2世実のおじたちはモンテネグロ王の娘婿であり、彼らの訪問は公式の政策温かい家庭の色を添えることになると考えられた。 8月18日ロシア艦隊フィウーメ出港した。その途上ギリシャ・キプロス情勢不安を巡る国際連合艦隊参加して地中海訪問していた装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフコルフ近く合流し8月19日 にモンテネグロ・アンティヴァリに到着したアンティヴァリでは、ロシア艦隊祝砲出迎え受けた。各艦から8 名の士官と6 名の艦隊実習生水兵一個小隊が陸へ招待された。彼らは、公式の式典参加するため、モンテネグロ首都ツェティニェ出発した。彼らは、治世50周年に際して王に即位した ニコラ1世から王の名において勲章メダル授与され温かな歓待受けた式典1週間近く続けられ8月25日終わった。翌26日朝には、両大公とその妻女ツェサレーヴィチ乗艦した。彼らに続きモンテネグロ国王自らがツェサレーヴィチ訪問して艦を見学したまた、艦上での朝食会参加した14時30分には、国王は下艦した。翌27日ロシア艦隊フィウーメ目指して碇を上げた艦隊はそこで乗客降ろしロシアへ向かう汽車乗せる予定であった。岸へ向かう前、ニコライ大公カッター乗って艦の周り回り乗員熱意対す感謝の意表した。 しかし、汎スラヴ主義則って声高にスラヴ民族統一唱える今回デモンストレーションオーストリア=ハンガリー帝国政府にとっては耳障りなものであり、海軍大臣のR・モンテクッコリ伯爵装甲巡洋艦カイザー・カール6世に乗って抗議のためフィウーメ向けて出航した。 翌8月28日早朝フィウーメにモンテクッコリ提督旗を掲げた装甲巡洋艦カイザー・カール6世が入港しツェサレーヴィチとのあいだで礼砲交わした正午近く、マニコーフスキイ海軍少将オーストリア艦へ出立し、そのタラップにて艦隊副官面会した副官は、モンテクッコリ提督は「現在朝食中であり、彼の下には来客があるため」誰も艦に上げられないということ伝えた。マニコーフスキイの言葉によれば、このとき後甲板では何かアリアのような音楽流れており、それはタラップにまで聞こえてくるほどであった。そして、彼のカッターが離艦するとき、定型礼砲発射されなかった。マニコーフスキイ提督悔しさからモンテクッコリの返礼訪問断り乗艦拒否していかなる敬意表さないよう命じた15時近く、モンテクッコリ提督ツェサレーヴィチ到着した。彼は不快な出来事詫びロシア提督の離艦の際に乗員礼砲を撃たなかった訳を説明し非礼詫びたしかしながら夕刻にはマニコーフスキイは定型礼砲撃たないことは無作法海軍エチケット反するものであり、ロシア海軍の名誉を傷つけるものである叱責する通知書発送した提督の決断効果発揮し始めた出航向けて準備始めていたカイザー・カール6世は数時間出港遅らせ、ちょうど8月29日午前8時きっかり13 発もの礼砲大音量で発射し前檣アンドレイ旗を掲げた。こうして、事件解決した出港まで残り日々はすべて石炭積載費やされた。その作業は、9月1日から4日まで休みなしで続けられた。乗員は非常に疲れ切ってしまい、そのことから悲劇生じた9月3日午前8時15分リューリク石炭袋を運び上げていた際、そのひとつが中身撒き散らしながら船倉落下し、数 mの高みから隊つきの下士官、D・クリールカにぶつかった。彼は意識が戻らぬまま2 分後に死亡した調査結果、彼は急ぐあまり不注意になっており、空の袋を拾い上げようとしながら自分件の石炭袋を起重機掛けたのだということわかった彼の葬儀翌日行われ、そこには士官艦隊実習生部隊ロシア大使オーストリア軍民代表者をはじめ、多く参列者が出席した9月4日14時バルト分遣隊フィウーメ停泊地をあとにした。次なる目的地クレタ島スダ港には9月7日到着した。ここで国際連合艦隊に戻る装甲巡洋艦アドミラール・マカーロフおよび航洋砲艦ヒヴィーネツと別れたスダ湾では固定的対す練習射撃が行われ、なおかつ士官候補生指揮訓練が行われた。分遣隊長の記録によれば艦隊実習生らはよく射撃実施しており、結果満足の行くものであった9月11日朝、艦隊は碇を上げコレラ蔓延するナポリ避けてトゥーロン向かった出航際し今度ツェサレーヴィチ曳航された移動的に対す射撃訓練実施した。そこで、リューリク艦隊実習生は最も優れた成績上げたトゥーロンへの途上リューリクピレウスへの予定外の寄港をすることになった艦内重度腹膜炎患者出たためで、彼はピレウス病院移された。1 昼夜ののち、リューリクは再び分遣隊合流した9月16日艦隊トゥーロン停泊地到着した。ここでもやはり救命艇火砲での訓練が行われた。並行してリューリクではフォルジュ・エ・シャンティエ・デュ・ラ・メディテラネ社の専門家により配水本管換装工事が行われた。しかし、一部工事が終わらなかったため延期され、スペイン・ビーゴにて完了したトゥーロンでも現地当局ロシア水兵との関係は至って良好で、その歓待懇ろなものであった。マニコーフスキイ提督報告によれば、それはあまりに昼食朝食誘われるため、時間足りなくてせっかくの招待を断らなければならないほどであった9月30日にはロシア艦隊フランスをあとにし、ジブラルタル向かった長期航海乗員を非常に疲れさせ、そのため規律違反増加したリューリクでも例外ではなかった。1週間航海ののち、10月5日には艦隊ビーゴ到着し、その12日後にはシェルブール向けて出港したフランス沿岸進んだのち、10月21日には分遣隊シェルブール停泊地到着し乗員たちはすぐさま石炭積載作業入った寒冷な天候のため作業はより難しくなり、とりわけほかの艦と違って蒸気船からではなく艀から石炭持ち上げなければならなかったリューリクでは作業難航した10月26日13時、バルト分遣隊北海出航した。しかし、そこでは9 バール厳し時化船体激し揺れ見舞われた。リューリクでは振幅16 度に達し、後甲板しょっちゅう大量覆われた。ハッチ覆いや小昇降口ヴィッカース社がゴム製のパッキング施しておらず、そのためそこから居住区下層甲板一部流れ込んできた。しかし、どうにかこれを克服しリューリク11月2日、他艦とともに無事クロンシュタット到着した。これで長かったこの年活動終了した

※この「スラヴの盟主」の解説は、「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の解説の一部です。
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