スラヴへの宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 23:59 UTC 版)
コンスタンティノープルからは、スラヴ地域への宣教がなされた。 9世紀にギリシア人宣教師キュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟は、無文字言語であったスラヴ語のために文字を考案し、聖書や祈祷書をスラヴ語に翻訳した。かれらの翻訳したスラヴ語を古代教会スラヴ語といい、今日もスラヴ語圏の教会では、このときの翻訳が礼拝で使われている。またキュリロスが考案したグラゴル文字は、彼の名を冠したキリル文字へ発展し、スラヴ文化の形成に大きく寄与した。 二人とその弟子たちにより、モラヴィア、セルビアに宣教がなされた。ただしモラヴィアではローマ教皇から派遣されたフランク族の宣教師と対立し、追い出されることになった。 テュルク系の遊牧民族ブルガール人がアジアより移住し、7世紀末にブルガリア帝国を建てていたブルガリアにも、870年に正教会が建立された。ブルガリアでもスラヴ語典礼が行われた。もともと数の少なかったブルガール人は、スラヴ人と同化し、11世紀頃までに吸収されていった。ブルガリアの支配下にあった現在のルーマニアは、古代から正教会に属しており、ラテン語から発展した言語が使われていたが、ここにもスラヴ語典礼が強制された。 988年にはキエフ大公国のウラジーミル1世が改宗し、キリスト教(正教)を国教とした。この時、コンスタンティノープル教会から洗礼を受けたことが、ルーシ(現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア)において正教が優勢となる端緒となった。 のちに、モンゴル帝国やオスマン帝国との対峙を経て、正教会の信仰と典礼は、スラヴ民族が民族的一体性を自覚し、また深めていく上で、大きな役割を果たすことになる。
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