ウィッテの経済政策
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「セルゲイ・ウィッテ」の記事における「ウィッテの経済政策」の解説
シベリア鉄道は国営鉄道であり、鉄道建設を国家資金でつくるには歳入を増大させなければならなかった。ウィッテは、私淑するF.リストの学説の影響を受けて、国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用し、1893年6月の4県での酒(ウォトカ)専売制の導入、1894年9月の粗糖税の75パーセント引き上げなどによって財政改革をおこなって歳入を増やす一方、保護関税政策の採用を進めた。 外債の募集もフランスにおいて積極的におこなわれた。民間企業にも外資導入が奨励された。ウィッテは新皇帝ニコライ2世(1894年即位)に対し、現状では国内資本が欠乏しており、防衛準備の強化や鉄道発展のためには巨額な資金が必要となることを訴え、寡少なロシア国民の貯蓄をそこにまわす余裕はないので、フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るべきであるとの意見も開陳して、これを実行した。ウィッテにとって、外国資本はロシアに不足している「資本、知識、それに企業意欲」を与えるものとされ、ロシアの国民文化にも好影響を及ぼすと期待されたのである。 ウィッテはまた、外資導入のため、通貨改革を1897年より開始し、金本位制を確立してルーブル紙幣の金への自由な交換を導入した。1897年1月、ウィッテは皇帝隣席のもと財務委員会をひらいて新しい金貨の鋳造開始を決定し、8月の勅令によってロシア国立銀行が発券銀行の役割を与えられ、金保有量の2倍を限度として兌換紙幣を発行した。この幣制改革により、為替相場の安定がもたらされ、外資流入に好適な環境がつくられ、投資活動が活発化して外貨が大量に増加した。20世紀初頭の段階でロシア経済への外国投資は全投融資の4割に達し、ドイツ・フランス・イギリスの企業が資本を投下していた。ウィッテが主導した、こうした国家資本主義的な経済メカニズムのことを「ウィッテ体制」と呼ぶ。 ウィッテは蔵相就任後、早々にドイツとの通商関係の処理に取り組んだ。ドイツは、1891年のロシアの高関税政策に対して不満の意を表明しており、1893年、最恵国条款にもとづく協定関税を与えるのと引き替えにドイツにも最恵国待遇を与え、77品目について関税を大幅に引き下げよう求めた。ウィッテは、これに対し、譲歩しうることは少ないとして、ロシアに特恵関税を適用しないのであれば、1891年関税をさらに上回る高関税を適用するとの対抗措置を講じた。これは、独露双方で交互に関税を引き上げる貿易戦争に発展した。しかし、これによって両国とも打撃を受けたため、双方が歩み寄って妥協が成立し、1894年2月、独露通商条約が結ばれた。この条約は、ロシアがドイツに穀物を輸出し、ドイツがロシアに機械類器具を輸出するという安定的な経済関係の構築につながった。こうして、東方へ向けた巨大鉄道の建設については概ね、資金をフランスが、機械をドイツが担うという形で進行することとなった。 比較的停滞していた数年間ののち、ウィッテを中心に1893年に再開された鉄道建設が経済成長の牽引役となった。1895年から1899年の間に鉄道網は年平均3,000キロメートル以上、その後の5年間で年平均2,000キロメートルも敷設・延伸され、とりわけ、シベリア鉄道の建設は重要であった。1890年代の新線建設は国営鉄道12,800キロメートル、私営鉄道は9,600キロメートルにおよんだ。鉄道建設は、鉄鉱石や石炭、木材その他の資源ならびに重機械工業製品の生産を促進し、国民経済の各産業分野が発展した。ロシアの銑鉄生産量は1890年代の10年間に3倍となり、1900年にはフランスとオーストリア=ハンガリーを抜いて世界第4位となった。なお、鋼完成品のうち鉄道のレールは90年代初頭の約60パーセントから1899年には約45パーセントへと低下し、鉄鋼業は鉄道需要からしだいに自立する傾向を示している。石炭産業も南部のドンバスを中心に急速に成長し、採掘量は90年代を通じて3倍に急増し、外国資本による新会社が次々につくられた。石油産業の成長はいっそう顕著で、バクー油田を中心に石油生産は世界の半分を占めるに至った。この時期のロシアの重工業製品生産は2.3倍増となって、工業成長率は当時世界最高水準の年8.1パーセントにおよんだ。ただし、国民一人あたりの生産量に計算しなおすと、銑鉄・石炭いずれも西欧諸国(英・米・白・独・仏)にはなお遠く及ばない水準にとどまっていた。とはいえ、この間の軽工業の進展も著しかったので、1887年に約131万人であったロシアの全産業労働者数は1897年には約210万人へと増加している。1900年まで、製造業の成長は、それ以前の5年間の成長の4倍に達し、それ以前の10年間では6倍もの成長速度を実現し、工業製品の対外貿易額はベルギーのそれにほぼ相当した 。 ウィッテは健全財政の確立に努め、信用制度の改善やヨーロッパの経済機構との連携を進め、各種増税の一方では近代化に資することのない国家歳出はすべて削減した。また、1897年に企業の労働時間を制限する法律を制定し、1898年には商業税と産業税の改革を行った。 一方、農業分野では改革が遅れたため、農民の全人口に占める農奴の割合は増加した。彼は「農業問題特別審議会」を設置し、自ら同審議会の責任者として土地改革案を作成した。農村共同体における集団責任の廃止と農民の帝国外部への再定住の促進にかかわる議論は3年におよび、これは、後にピョートル・ストルイピン時代の土地改革の基礎になったといわれている。ウイッテは、従来の農村共同体が伝統的な農民一揆の温床となっており、かつ近年過激さを増す一方であったことを憂慮して、こうした共同体を解体して一揆の連鎖を断ち、個人主義的な農業を打ち立てなければならないと考え、「土地割替」廃止の方針を立てたが、彼の改革はなお不徹底さをのこしていた。ウィッテはロシア経済の近代化を保持するため、農村産業の必要性にかかわる特別会議を招集し、主催した。この会議は、将来の改革のための推奨事項を提供し、それらの改革を正当化しうるデータをまとめるためのものであった。なお、1902年4月、ウィッテの支持者であるドミトリー・シピャーギン内務大臣が銃で暗殺されている。 ウィッテは、政治的には、外国からの投資をロシアに呼び込むために新しい状況に現実的に応じ、ある程度の専制権力の抑制をも視野に置いていた。基本的にウィッテは、自身が尊敬するコンスタンチン・ポベドノスツェフと同様、皇帝専制政治を志向していたが、保守主義者であると同時に現実的・科学的な合理主義者でもあった。 即位当初はニコライ2世もウィッテら諸大臣の助言と忠告にしたがっていたが、あくまで王権神授説を奉ずるニコライ自身やその側近とはしだいに齟齬をきたすようになった。そして、東アジア情勢が混迷をきわめ、諸大臣の意見が分かれるようになると、皇帝ニコライはウィッテの意見を採用せず、冒険主義的な意見を傾聴するようになっていった。 ウィッテは、ロシアの工業化は経済のみならず政治上の課題でもあるとみなしていた。工業化は第1に、社会改革遂行のための資産を蓄え、農業の発展も可能にし、第2に、貴族たちを政治の場から徐々に締め出して資本家や実業家に交替させていくことによって政治・経済の両面から近代化を進めることが可能になると期待された。ウィッテは、工業化と金融改革がその必要条件となり、後発資本制国家のロシアも「世界不易の法則」にしたがって英仏などのような資本主義へと移行していくべきであるという考え方に立っていた。それに対し、シピャーギンの後任内相であるヴャチェスラフ・プレーヴェは、みずから「ロシア原則の断固たる擁護者」として行動することを自認し、「ロシアにはロシア自体の個別の歴史とそれに由来する特別な体制がある」と主張して、「未熟な若者や学生、あるいは革命家たちの圧力による急激な改革は許されるべきではない」としてウィッテと鋭く対立した。そして、この対立は外交政策をめぐっても繰り返されたのであった。
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