ウィッテの経済政策とは? わかりやすく解説

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ウィッテの経済政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)

セルゲイ・ウィッテ」の記事における「ウィッテの経済政策」の解説

シベリア鉄道国営鉄道であり、鉄道建設国家資金でつくるには歳入増大させなければならなかった。ウィッテは、私淑するF.リスト学説影響受けて国家市場積極的に介入する経済政策採用し1893年6月の4県での酒(ウォトカ専売制導入1894年9月粗糖税の75パーセント引き上げなどによって財政改革をおこなって歳入増やす一方保護関税政策採用進めた外債募集フランスにおいて積極的におこなわれた民間企業にも外資導入奨励された。ウィッテ新皇ニコライ2世1894年即位)に対し現状では国内資本欠乏しており、防衛準備強化鉄道発展のためには巨額な資金が必要となることを訴え寡少ロシア国民の貯蓄をそこにまわす余裕はないので、フランス資本中心とする外資積極導入を図るべきであるとの意見開陳して、これを実行したウィッテにとって、外国資本ロシア不足している「資本知識、それに企業意欲」を与えるものとされ、ロシア国民文化にも好影響を及ぼすと期待されのであるウィッテまた、外資導入のため、通貨改革1897年より開始し金本位制確立してルーブル紙幣の金への自由な交換導入した1897年1月ウィッテ皇帝隣席のもと財務委員会ひらいて新し金貨鋳造開始決定し8月勅令によってロシア国銀行発券銀行役割与えられ、金保有量の2倍を限度として兌換紙幣発行した。この幣制改革により、為替相場安定もたらされ外資流入好適環境つくられ投資活動活発化して外貨大量に増加した20世紀初頭の段階ロシア経済への外国投資は全投融資の4割に達し、ドイツ・フランス・イギリスの企業資本投下していた。ウィッテ主導したこうした国家資本主義的な経済メカニズムのことを「ウィッテ体制」と呼ぶ。 ウィッテ蔵相就任後、早々にドイツとの通商関係の処理に取り組んだドイツは、1891年ロシアの高関税政策に対して不満の意を表明しており、1893年最恵国条款にもとづく協定関税与えるのと引き替えドイツにも最恵国待遇与え77品目について関税大幅に引き下げよ求めたウィッテは、これに対し譲歩しうることは少ないとしてロシア特恵関税適用しないであれば1891年関税をさらに上回る関税適用するとの対抗措置講じた。これは、独露双方交互に関税引き上げ貿易戦争発展した。しかし、これによって両国とも打撃受けたため、双方歩み寄って妥協成立し1894年2月、独露通商条約結ばれた。この条約は、ロシアドイツ穀物輸出しドイツロシア機械類器具輸出するという安定的な経済関係構築つながった。こうして、東方向けた巨大鉄道の建設については概ね資金フランスが、機械ドイツが担うという形で進行することとなった比較停滞していた数年間ののち、ウィッテ中心に1893年再開され鉄道建設経済成長牽引役となった1895年から1899年の間に鉄道網は年平均3,000キロメートル以上、その後5年間で年平均2,000キロメートル敷設延伸され、とりわけシベリア鉄道の建設は重要であった1890年代新線建設国営鉄道12,800キロメートル私営鉄道は9,600キロメートルおよんだ鉄道建設は、鉄鉱石石炭木材その他の資源ならびに重機工業製品生産促進し国民経済各産業分野発展したロシア銑鉄生産量1890年代10年間に3倍となり、1900年にはフランスオーストリア=ハンガリー抜いて世界第4位となった。なお、鋼完成品のうち鉄道レール90年代初頭の約60パーセントから1899年には約45パーセントへと低下し鉄鋼業鉄道需要からしだいに自立する傾向示している。石炭産業南部ドンバス中心に急速に成長し採掘量は90年代通じて3倍に急増し外国資本による新会社次々つくられた。石油産業成長はいっそう顕著で、バクー油田中心に石油生産世界半分占めるに至った。この時期ロシア重工業製品生産は2.3倍増となって工業成長率当時世界最高水準の年8.1パーセントおよんだ。ただし、国民一人あたりの生産量計算しなおすと、銑鉄石炭いずれも西欧諸国英・米・白・独・仏)にはなお遠く及ばない水準とどまっていた。とはいえこの間軽工業進展著しかったので、1887年に約131万人であったロシアの全産業労働者数は1897年には約210万人へと増加している。1900年まで、製造業成長は、それ以前5年間の成長の4倍に達しそれ以前10年間では6倍もの成長速度実現し工業製品対外貿易額はベルギーのそれにほぼ相当したウィッテ健全財政確立努め信用制度改善ヨーロッパ経済機構との連携進め各種増税一方で近代化資することのない国家歳出はすべて削減したまた、1897年企業労働時間制限する法律制定し1898年には商業税と産業税の改革行った一方農業分野では改革遅れたため、農民全人口に占め農奴割合増加した。彼は「農業問題特別審議会」を設置し、自ら同審議会責任者として土地改革案を作成した農村共同体における集団責任廃止農民帝国外部への再定住促進にかかわる議論3年におよび、これは、後にピョートル・ストルイピン時代土地改革基礎になったといわれている。ウイッテは、従来農村共同体伝統的な農民一揆温床となっており、かつ近年過激さを増す一方であったことを憂慮してこうした共同体解体して一揆連鎖断ち個人主義的な農業打ち立てなければならない考え、「土地割替」廃止方針立てたが、彼の改革はなお不徹底さをのこしていた。ウィッテロシア経済近代化保持するため、農村産業必要性にかかわる特別会議を招集し主催した。この会議は、将来改革のための推奨事項提供し、それらの改革正当化しうるデータをまとめるためのものであった。なお、1902年4月ウィッテ支持者であるドミトリー・シピャーギン内務大臣が銃で暗殺されている。 ウィッテは、政治的には、外国からの投資ロシア呼び込むために新し状況現実的に応じある程度専制権力抑制をも視野置いていた。基本的にウィッテは、自身尊敬するコンスタンチン・ポベドノスツェフと同様、皇帝専制政治志向していたが、保守主義者であると同時に現実的科学的な合理主義者でもあった。 即位当初ニコライ2世ウィッテら諸大臣助言忠告にしたがっていたが、あくまで王権神授説奉ずるニコライ自身やその側近はしだい齟齬をきたすようになった。そして、東アジア情勢混迷をきわめ、諸大臣意見分かれるうになると、皇帝ニコライウィッテ意見採用せず、冒険主義的な意見傾聴するようになっていった。 ウィッテは、ロシア工業化経済のみならず政治上の課題でもあるとみなしていた。工業化第1に社会改革遂行のための資産蓄え農業発展可能にし、第2に、貴族たちを政治の場から徐々に締め出して資本家実業家交替させていくことによって政治・経済両面から近代化進めることが可能になる期待された。ウィッテは、工業化と金改革がその必要条件となり、後発資本制国家ロシアも「世界不易法則にしたがって英仏などのような資本主義へと移行していくべきであるという考え方立っていた。それに対し、シピャーギンの後任内相であるヴャチェスラフ・プレーヴェは、みずから「ロシア原則断固たる擁護者」として行動することを自認し、「ロシアにはロシア自体個別歴史とそれに由来する特別な体制がある」と主張して、「未熟な若者学生、あるいは革命家たちの圧力による急激な改革許されるべきではない」としてウィッテ鋭く対立した。そして、この対立外交政策をめぐって繰り返されたのであった

※この「ウィッテの経済政策」の解説は、「セルゲイ・ウィッテ」の解説の一部です。
「ウィッテの経済政策」を含む「セルゲイ・ウィッテ」の記事については、「セルゲイ・ウィッテ」の概要を参照ください。

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