蔵相就任
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1892年(明治25年)、品川弥二郎内相による選挙大干渉によって第1次松方内閣は総辞職した。その後を襲って第2次伊藤内閣が成立する。伊藤博文首相は、組閣に当たり維新の元勲の総出で内閣を組織したが、大蔵大臣には松方前首相の就任が有力視される中、下馬評を覆す形で渡辺が起用された。同年11月、第4帝国議会に政府は予算案を提出する。総選挙に勝利した野党は予算案に反対し、軍艦新造費全額削減と予算案の11パーセント減額修正を求め対立する。このときは明治天皇が6年間御内帑金30万円を下賜し建艦費に充てるという和協の詔勅を発布されたため、政府野党ともに矛を収めた。 1900年(明治33年)、伊藤博文が立憲政友会を結成すると、渡辺は政友会創立委員としてこれを助けた。同年、第4次伊藤内閣の蔵相に就任する。渡辺は緊縮財政のため、官業中止、事業の延期、酒税、砂糖税増税を実施しようとする。衆議院は大隈重信の憲政本党の賛成で通過するが、貴族院の反対にあい、明治天皇の詔勅で危機を脱した。しかし、明治34年度および明治35年度予算案編成に当たり、緊縮財政を主張して現在行われているものも含めた全ての公債発行事業の停止を提案した。政府・政友会は緊縮予算の必要性については認めていたが、そのために地方から政友会の代議士に寄せられていた陳情を星亨と原敬が必死に押し留めて、当時行われていた公債発行事業の完成を優先するという党内合意を取り付けた直後というタイミングだった。 これに対しては旧憲政党系閣僚だけではなく、西園寺公望や金子堅太郎、末松謙澄ら官僚系閣僚からも非難を受けて閣内で孤立した。こうして、第4次伊藤内閣は閣内不統一で総辞職することとなった。このとき渡辺は辞表を奉呈を拒否し、伊藤に辞表撤回を求めたが衆寡敵せず、内閣総辞職後に諭旨免官となった。
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