蔵相就任とは? わかりやすく解説

蔵相就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:05 UTC 版)

渡辺国武」の記事における「蔵相就任」の解説

1892年明治25年)、品川弥二郎内相による選挙干渉によって第1次松方内閣総辞職したその後襲って第2次伊藤内閣成立する伊藤博文首相は、組閣に当たり維新の元勲総出内閣組織したが、大蔵大臣には松方前首相就任有力視される中、下馬評覆す形で渡辺起用された。同年11月第4帝国議会政府予算案提出する総選挙勝利した野党予算案反対し、軍艦新造全額削減予算案11パーセント減額修正求め対立する。このときは明治天皇6年御内帑金30万円下賜建艦費に充てるという和協の詔勅発布されたため、政府野党ともに矛を収めた1900年明治33年)、伊藤博文立憲政友会結成すると、渡辺政友会創立委員としてこれを助けた同年第4次伊藤内閣蔵相就任する渡辺緊縮財政のため、官業中止事業延期酒税砂糖税増税実施しようとする。衆議院大隈重信憲政本党賛成通過するが、貴族院反対にあい、明治天皇詔勅危機脱した。しかし、明治34年度および明治35年予算案編成に当たり、緊縮財政主張して現在行われているものも含めた全ての公債発行事業停止提案した政府政友会緊縮予算必要性については認めていたが、そのために地方から政友会代議士寄せられていた陳情星亨原敬必死に押し留めて、当時行われていた公債発行事業完成優先するという党内合意取り付けた直後というタイミングだった。 これに対しては旧憲政党閣僚だけではなく西園寺公望金子堅太郎末松謙澄官僚閣僚からも非難受けて閣内孤立した。こうして、第4次伊藤内閣閣内不統一総辞職することとなった。このとき渡辺辞表奉呈拒否し伊藤辞表撤回求めた衆寡敵せず内閣総辞職後に諭旨免官となった

※この「蔵相就任」の解説は、「渡辺国武」の解説の一部です。
「蔵相就任」を含む「渡辺国武」の記事については、「渡辺国武」の概要を参照ください。

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