蔵相解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)
ウィッテはロシア国内に飢饉が広がっていることもあって日本との戦争には強く反対した。クロパトキンもまた、他のロシアの武官たちが日本の軍事力を過小評価するなか、1903年には従来の認識を改め、日本軍は強力であり、攻撃に踏み切る可能性もあると考えるようになっており、南満洲地域の放棄さえ主張するようになっていた。しかし、ウィッテの政敵であったヴャチェスラフ・プレーヴェ内相や強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフ元近衛士官らはむしろ日本との戦争を望んだ。日本との戦争を避けるために慎重な極東政策を支持していたウィッテやラムスドルフらの発言権は弱まり、極東における軍備増強を唱えるベゾブラーゾフを中心とする「ベゾブラーゾフの徒党」が皇帝ニコライ2世の信任を得て勢力を拡大させた。ベゾブラーゾフは極東ロシアの軍備増強を強く主張したが、クロパトキンはこれには反対の立場をとった。プレーヴェはこのときベゾブラーゾフに接近したが、それはウィッテ追い落としのためには彼が必要だったからといわれている。 内政面では、ウィッテは農村の経済問題をめぐってプレーヴェ内相との深刻な対立関係にあった。『ウィッテ伯回想記』によれば、彼はゼムストヴォ(地方自治体)代表の報告を内務省批判へ向けようとした。土地制度改革にかかわる政治的対立の中で、プレーヴェは彼の見解を「ユダヤ・フリーメーソンの一部による陰謀」だとして非難した。ヴァシーリー・グルコ(英語版)によれば、ウィッテは優柔不断な皇帝を未だ支配していたのであり、ウィッテの反対者たちは今こそ彼を取り除く好機であると見定めたのであった。ベゾブラーゾフもまた、ウィッテの運営する鉄道のサービスのひどさをこきおろしたり、かれがユダヤに近いこと、出世するのはユダヤ人とポーランド人ばかりだということ、彼の闇取引による蓄財、また、最初の妻への仕打ちなど、さまざまな誹謗中傷を展開した。 1903年8月、皇帝ニコライ2世の専断により、ウィッテ蔵相・ラムスドルフ外相およびクロパトキン陸相の預かり知らぬところで旅順に極東総督府が設置され、ベゾブラーゾフ一派のエヴゲーニイ・アレクセーエフ関東州駐留軍司令官が極東総督(ロシア語版)に任じられ、同月16日、ウィッテは蔵相を解任された。ニコライ2世は、日本との妥協を拒否する新方針を携え、こもっていた修道院から姿を現し、「これより余が統治する」との言葉を日記に残した。ベゾブラーゾフが朝鮮半島で通商面で攻勢をかけようとしていることを皇帝は称えた。 ウィッテには大臣委員会議長への転出が命じられ、1905年10月までその職にあった。一見昇進のようにもみえるこの人事はしかし、内閣制度が確立していない当時のロシアにあっては権限の少ない閑職への左遷であり、ウィッテの政治的失脚にほかならなかった。ウィッテの蔵相解任が政敵の圧力下で行われたことであることは確かなことであるが、しかし、歴史家のニコラス・ヴァレンタイン・リアサノフスキー(英語版)とロバート.K.マッシーは、ロシアの対韓国政策についてウィッテが反対したことが失脚につながったとみている。 ウィッテの失脚は、伊藤博文や松方正義といった日本国内の対露協調派に大きな衝撃をあたえた。伊藤や松方はウィッテを日本の立場を理解する人物とみなしており、彼らもウィッテとならば朝鮮・満洲をめぐる日露間の利害対立も平和的に調整可能と考えていた。その彼の突然の失脚は、日本政府内の対露強硬派を勢いづかせる結果となる一方、以後のロシアの極東進出が軍事力に依拠したものとなるであろうことを示していた。 ニコライ2世自身は日本との戦争を必ずしも望んでいるわけではなかったが、その無定見さによりロシアの極東政策は混乱の度を深めた。1903年10月8日は、本来は満洲還付条約で規定された第3次撤兵の期限であったが、ロシアはそれを無視して奉天城を占領している。駐日ロシア公使ロマン・ローゼンと外務大臣小村寿太郎との交渉も不調に終わり、日本では1904年1月16日の御前会議で開戦方針が決定された。ロシア側は、2月8日の御前会議で、ラムスドルフ外相が戦争を避けるためにあらゆる措置を講ずるべきであると説いたのに対し、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版)大公とクロパトキン陸相は「満洲への戦争拡大を避けるために漢城より北方への日本軍の上陸を認めてはならない」と主張した。このなかで、アレクセイ大公は日本海軍の出動はないだろうと考えていたのに対し、クロパトキンは日本陸軍が朝鮮半島に上陸するのに先立って海軍が出動し、極東のロシア艦隊を攻撃するであろうとの予想を立てた。日本軍が仁川と旅順口外でロシア太平洋艦隊に先制攻撃を開始したのは、まさにロシアで御前会議が開かれていた2月8日当日のことであった。
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