アバディーン内閣大蔵大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「アバディーン内閣大蔵大臣」の解説
上記予算案の否決によりダービー伯爵内閣は総辞職した。1852年12月28日、分裂状態の続くホイッグ党に代わって、ピール派党首アバディーン伯爵に組閣の大命があり、ピール派6人、ホイッグ党6人、急進派1人からなるアバディーン伯爵内閣(英語版)が組閣された。グラッドストンも大蔵大臣として入閣した。 蔵相就任後、さっそくディズレーリの予算案に代わる新たな予算案作成にあたった。130品目の食品の関税を廃止しつつ、緊縮財政を守るため、その減収分を補う物として全ての動産・不動産に対して相続税を導入した(これまでの相続税は限嗣相続ではない動産のみにかかった)。一方グラッドストンが「働かないで得た財産収入と働いて得た労働収入を同列にしている」「脱税を招きやすく、国民道徳を衰退させる」として「最も不道徳な税金」と定義していた所得税は漸次減らしていき、7年後には全廃するとした(ただしそれまでの間はこれまで適用外とされていたアイルランドにも所得税を適用)。ディズレーリ予算案との最大の違いは地主に大きな負担を強いたことである。庶民院でのグラッドストンの予算案演説は、高く評価され、ジョン・ラッセル卿は「ミスター・ピットはその最盛期にはもっと堂々としていたかもしれませんが、その彼さえもグラッドストンほどの説得力はありませんでした」と女王に報告している。予算はほとんど無修正で庶民院を通過した。 1853年10月にロシア帝国とオスマン帝国の間でバルカン半島をめぐってクリミア戦争が勃発した。バルカン半島がロシアの手に落ちればイギリスの地中海における覇権が危機に晒される恐れがあったが、首相アバディーン伯爵は平和外交家として知られていたため、当初参戦に慎重な姿勢を示した。グラッドストンも当初は慎重派だった。 しかしフランス皇帝ナポレオン3世が英仏共同で対ロシア参戦しようとイギリスに誘いをかけてきたうえ、ホイッグ党のラッセルとパーマストン卿がともに対ロシア強硬派だったため、最終的にはイギリスも対ロシアで参戦することとなった。グラッドストンはキリスト教弾圧を止めないトルコを嫌っていたが、それを止めるという名目でバルカン半島侵略を目論むロシアも嫌っていたので参戦に積極的な反対はしなかった。ただ戦費を維持するために所得税漸次廃止が実現不可能になり、所得税を永久税とせざるをえなくなったことについては惜しんでいた。 クリミア戦争の戦況は泥沼化し、1855年1月には急進派のジョン・アーサー・ローバック(英語版)議員が前線の軍の状況を調べるための調査委員会の設置を要求する動議を提出した。このローバックの動議に反対する政府側の代表答弁はグラッドストンが行った。彼は戦時中にそのような調査を行う事はイギリスの弱点を敵国に教えるようなものであると訴えたが、この演説は功を奏せず、ディズレーリの糾弾演説の方が注目され、動議は305票対148票という大差で可決された。 この敗北を受けてアバディーン内閣は総辞職し、紆余曲折の末にホイッグ党のパーマストン子爵に組閣の大命がおりた。 [先頭へ戻る]
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