アバディーン伯爵内閣の内相
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「アバディーン伯爵内閣の内相」の解説
パーマストン卿とラッセルの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。1851年12月、女王は長老政治家ランズダウン侯爵の助言に従ってピール派領袖アバディーン伯爵に組閣の大命を与えた。 アバディーン伯爵内閣はピール派、ホイッグ党、急進派の連立によって組閣されたが、ピール派や急進派はパーマストン卿が外相になることに反対したため、外相の地位にはラッセルが就任し、パーマストン子爵には外相以外の好きな閣僚ポストが提供されることになった。パーマストン卿は当初「外相以外は受けるつもりはない」と入閣を拒否していたが、ランズダウン侯爵の説得を受け入れて内務大臣として入閣することになった。 内相となったパーマストン卿は1853年の新工場法制定を主導し、若い労働者の保護に尽力した。また工場の石炭の煙の規制など環境・公害問題にも取り組んだ。この内閣ではアバディーン伯爵やラッセルが中心となって都市選挙区の熟練労働者に選挙権を拡大させる法案が検討されたが、パーマストン卿は「立法権を貴族・地主・ジェントリから実業家・商人・労働者に譲り渡すことになりかねない」として反対の立場をとり、推進派のアバディーン伯爵やラッセルと対立を深めていった。 内相時代にも彼の主たる関心は外交にあった。とりわけフランス皇帝ナポレオン3世がトルコからパレスチナのカトリック保護権を得て、同地のギリシャ正教会の保護権を主張していたロシアと対立を深めていることに注目していた。パーマストン卿は1853年1月からアバディーン伯爵、ラッセルとともに閣内に置かれた外交検討グループのメンバーになっていたため、その資格でこの問題に積極的に発言した。 閣内ではパーマストン卿やラッセルらホイッグ党系閣僚がトルコ・フランスに好意的な態度をとり、逆にアバディーン伯爵やグラッドストンらピール派閣僚がロシアに好意的だった。ロシアはアバディーン伯爵の平和外交でイギリスが中立の立場をとるだろうと期待し、他方トルコとフランスはパーマストン卿の強硬外交でイギリスが対ロシア参戦するだろうと期待していた。そのため双方とも強硬姿勢を崩さなかった。その結果、1853年10月にロシアとトルコは開戦してクリミア戦争が勃発した。 閣内分裂状態になったアバディーン伯爵内閣だが、そもそも同内閣はパーマストン卿とラッセルというホイッグ党二巨頭の支持無くしては存続できないので、結局決定的な主導権を握ったのはこの二人だった。その結果、内閣は対ロシア主戦論に傾き、1854年3月にイギリスはフランスとともにロシアに宣戦布告した。 しかしクリミア戦争は膠着状態となり、1855年1月29日にはジョン・アーサー・ローバック(英語版)議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置を求める動議が大差で可決され、アバディーン伯爵内閣は総辞職に追い込まれた。
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