アバディーン伯爵内閣の内相とは? わかりやすく解説

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アバディーン伯爵内閣の内相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)

ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「アバディーン伯爵内閣の内相」の解説

パーマストン卿とラッセル険悪な関係は続き両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班内閣作るのは無理な情勢であった1851年12月女王長老政治ランズダウン侯爵助言に従ってピール派領袖アバディーン伯爵組閣の大命与えたアバディーン伯爵内閣ピール派ホイッグ党急進派連立によって組閣されたが、ピール派急進派パーマストン卿が外相になることに反対したため外相地位にはラッセル就任しパーマストン子爵には外相以外の好きな閣僚ポスト提供されることになったパーマストン卿は当初外相以外は受けるつもりはない」と入閣拒否していたが、ランズダウン侯爵説得受け入れて内務大臣として入閣することになった内相となったパーマストン卿は1853年新工場法制定を主導し、若い労働者保護尽力した。また工場石炭の煙の規制など環境公害問題にも取り組んだこの内閣ではアバディーン伯爵ラッセル中心となって都市選挙区熟練労働者選挙権拡大させる法案検討されたが、パーマストン卿は「立法権貴族地主ジェントリから実業家商人労働者譲り渡すことになりかねない」として反対の立場をとり、推進派のアバディーン伯爵ラッセル対立深めていった。 内相時代にも彼の主たる関心外交にあったとりわけフランス皇帝ナポレオン3世トルコからパレスチナカトリック保護得て同地ギリシャ正教会保護主張していたロシア対立深めていることに注目していた。パーマストン卿は1853年1月からアバディーン伯爵ラッセルとともに閣内置かれ外交検討グループメンバーになっていたため、その資格でこの問題積極的に発言した閣内ではパーマストン卿やラッセルホイッグ党閣僚がトルコ・フランスに好意的な態度をとり、逆にアバディーン伯爵グラッドストンピール派閣僚ロシア好意的だったロシアアバディーン伯爵の平和外交イギリス中立立場をとるだろうと期待し他方トルコフランスパーマストン卿の強硬外交イギリス対ロシア参戦するだろうと期待していた。そのため双方とも強硬姿勢を崩さなかった。その結果1853年10月ロシアトルコ開戦しクリミア戦争勃発した閣内分裂状態になったアバディーン伯爵内閣だが、そもそも内閣パーマストン卿とラッセルというホイッグ党巨頭支持無くしては存続できないので、結局決定的な主導権握ったのはこの二人だった。その結果内閣対ロシア主戦論傾き1854年3月イギリスフランスとともにロシア宣戦布告した。 しかしクリミア戦争膠着状態となり、1855年1月29日にはジョン・アーサー・ローバック(英語版議員提出戦争状況調査するための秘密委員会設置求め動議大差可決されアバディーン伯爵内閣総辞職追い込まれた。

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